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けれど、そう言いながらも僕自身は、「演劇の映像配信」にそれほど興味がない。なぜならば、演劇の映像配信で届けることのできる演劇体験はごく一部だし、多くの場合、映画表現の劣化版を供給することにしかならないだろうからだ。観客がどこを観るかを選べるというのは、本当に素晴らしいことだ。Aという俳優を観たり、Bという俳優を観たりできる。ドアを観たり、窓を観たり、椅子を観たりもできる。観客は、撮影技師や映画監督が意図して作り上げた映像を見ることで、物語の世界に没入していく。世界初のSF映画とされるこの作品は、いくつかのシーンが繋ぎ合わされることによって物語が描かれている。そして特殊効果的な編集も施されている。いま見ても面白さを感じられる娯楽的作品だと思う。けれどディスプレイで演劇を観るときには、ディスプレイ自体が発光している。これは光の情報を受け取るときの「情緒」の違いを生みそうだなと思う。そこで子どもが虫眼鏡を手にとりそれを覗くと、今度はまた冒頭の丸く切り取られた映像の画面に切り替わる。しかし映し出されるのは新聞の記事ではなく懐中時計の歯車だ。子どもが虫眼鏡をつかって鳥や猫やおばあさんの目を覗く、という単純な話ではあるが、ここでは演劇では絶対にできないことが行われている。それが「クロースアップ」だ。しかし、そこには空間がある。すこしまどろっこしい答え方をするなら、空気がある。酸素や窒素といった分子があり、それらは素粒子の集合体だとも言える。けれど、そういった現代科学では解明できないようなものも、この「空間」には存在しているように思う。そして、奥壁を背にして見える正面。ここには「第四の壁」が存在するとされる。しかし事実その向こう側には、観客席がある。しかし劇の登場人物たちは第四の壁の向こう側の観客の存在を原則的には認識せずに、そこには壁なり、窓なり、町並みなり、山の景色なりがあるようにして演技を進める。でも、そういった取り組みが無意味だとは思わない。そういったチャレンジをする人たちをバカにするような気持ちもない。むしろリスペクトしている。「コマ撮り」「クロスカッティング」「ピクチャーインピクチャー」「パン」「ドリー」「カットバック」「フラッシュバック」「スタジオ撮影とロケ撮影の融合」「ロング/ミディアム/クロースのショットの選択」などなど。劇場で上演される演劇の多くは、一方向から鑑賞する観客の目を意識して劇空間が作られる。舞台上は三方向が役者たちのための空間になっている。奥壁を設定すればそれに背を向けて右手側が下手(しもて)、左手側が上手(かみて)となる。試しに考えてみてほしい。この文章を読んでいるあなたの目と、この文字を映し出すディスプレイのあいだには、一体なにがあるだろうか。AとBという人物が対話をしている。そこで語られる言葉を聞き取っている。彼らの仕草や表情が何を表出しようとしているのかを読み取ろうともしている。記録映画の段階はいわゆる「ロケ」で撮影されるものが多かった。当然である。日常の風景を「記録」するためにカメラを回すのだから。映画の虚構は、この手では壊せない。DVDを手で粉々に砕いたところで、同じ映像が保存されたディスクはこの世界に何千枚と存在する。そもそも最近は映像は「データ」になってしまった。データをいくらクラッシュしたところで、そのコピーをすべて消し去ることはできない。すべての演出は計算され、観客が何をみるべきかという「フォーカス」もすべて計算されている。聖書を題材にした物語映画は数多く作られたようだし、火事を消しにいく消防士たち(「火事だ!」)なども、映像だけでその状況を理解できる好例だ。演劇においては、劇空間のどこを観るのかについては、観客の選択に任されている。制作者たちは観客の視点を誘導できるように演出方法や演技方法を可能な限り工夫するが、最終的な選択権は観客にある。現代に近づくと、コンピューターグラフィックスなんかもそこに含まれてくるけれど、映画技法を仔細に語るほど僕は詳しくないので、そういうのは割愛。今日考えるのはあくまでも「僕にとってはこうだ」ということだ。主語は「僕」である。けれどまず、「僕にとっては」を考えることは非常に大事なことだ。それは、映画と自分の「関係性」について考えることだからだ。それは「演劇と自分の関係性」について考えることにも繋がる。「映画と演劇の関係性」を考えることにも繋がるだろう。こういった「可動性のある視点」と「あとから編集可能な記録媒体」というカメラ映像の特徴を利用した表現方法の発見・発明により、映画は「映画らしさ」をどんどんと発展させていく。この映像から気付くのは、「定点からの撮影」がされているということである。ゆえに役者たちは「前」を意識した演技をしている。身振りもだが、役者たちの配置にもその影響がうかがえる。これはまさに、演劇の劇空間の作り方と同じだ。第四の壁の外からでは絶対に見えない物の細部を、クロースアップで見せることができる。これは、カメラという「可動性のある視点」と、フィルムという「あとから編集可能な記録媒体」があるからこそ成立する物語の紡ぎ方だ。俳優であり歌手である山野靖博が、芝居について考えて書いた記事をまとめてあるマガジンです。これは盲点だった。たしかに、劇場演劇を観るときは、照明の灯体から発せられた光を、舞台上のものが反射をして、それを僕らが見ることになる。演劇を無批判に信奉する立場からすれば、そういった「映像表現の土俵に乗ったときの至らない点」については無視することができるのかもしれない。けれどその姿勢は、演劇表現をアップデートすることに一切寄与しない。可変性のある視点を最大限に利用した、さまざまなアングルの映像。編集できるという利点を生かした、スピード感のある場面転換。場面の状況や登場人物の心理を表すような効果音やBGMの効果。テロップなどの活用。ひとつは、「演劇的な第四の壁の外からの視点」。もうひとつは、「子どもが虫眼鏡を覗く視点」。この、ふたつめの視点を「クロースアップ」と呼ぶ。そして僕は、そういった目に見えたり耳に聞こえたりするだけではない、AとBというふたりの人物の「あいだ」にある「なにもない空間」に「何があるのか」をも、よくよくキャッチしようとしているのだ。そう、劇場には、本当の暗闇が存在するのだ。素晴らしい技術を持った照明家さんは、その「本当の暗闇」を舞台上に作ることができる。光を使って。演劇は、観客の視点が客席に縛り付けられているので、舞台上の物や人の表情をクロースアップで見ることができない。(上演中の舞台上を観客が歩き回れるイヴォ・ヴァン・ホーヴェの「ローマ悲劇」とかは別の話。見たかったなぁ、ローマ悲劇・・・。)ただやはり、いま僕が考えていることの中心はさいしょに書いたように「ポスト新型コロナの時代の演劇」についてである。「演劇」について考えているのだ。映像になってしまった演劇も、完全なる虚構に近づく。現実の時間と虚構の時間が危うく重なるあの歪みは失われ、観客の手の触れられないところにいってしまう。現実と虚構が重なり合うからこそ生まれる、その世界の歪みだ。劇場演劇はその「歪み」を持っている。そして観客は、その勇気があるならば、その「歪み」に手を伸ばすことが可能だ。AとBという人物の対話の場面において話している人物にフォーカスをして観る、という観劇の仕方もあれば、強い意志を持って「Aの人物しか見ない」という選択をすることも観客には許されている。「おばあさんの虫眼鏡」という作品だが、ここでは「視点の切り替え」が取り入れられている。「コマ撮り」「クロスカッティング」「カットバック」「フラッシュバック」「スタジオ撮影とロケ撮影の融合」「ピクチャーインピクチャー」なんかは、「後から編集可能な記録媒体」という特徴に起因している。「家で演劇映像を見るんだけど、どうしても最後まで見通せないよ、なんでだろ」という note を書いたら、いろいろな意見が寄せられた。共感を示すコメントもあれば、「演劇は客が劇場に縛り付けられていることに甘えていた、ともいえそう。」という意見もあった(僕もそれに強く賛成する)。そしてこれらの「不可視なもの」は、(映画を含む)映像表現のなかからは残念ながら、あまり読み取れないみたいだ。自宅待機がはじまってからこちら、「ポスト新型コロナ時代の演劇とは」について考え続けている。だからひとまず、僕にとっての映画について、考えてみたいと思う。縦と横に切り取られたスペースに、映像を映し出す。そこには物理的な奥行きは存在しない。「画面のどこを見るか」はもしかしたら選べるかもしれないが、「AとBという人物の対話の場面で、話している人物にクロースアップされるという撮影と編集」がされていたら、「話していない人物の顔」を見ることは不可能だ。映画の上演は「スクリーン」に映像が「映写される」ことによって成立する。対して演劇は「舞台上」で俳優たちが「アクションする」ことによって上演が成立する。人々が家の外に出られなくなった。その状況で、人々の手元に演劇的なものを届けようとしているのだ。尊いプロジェクトだと思う。世界中でそれによって救われる人が何千万人もいるはずだ。何億人、かもしれない。しかし、この「記録映画」はすぐに大衆に飽きられ、興行成績が落ちていく。そこで、記録映画に若干の演出をつけた、コメディ風の映画が登場する(「水をかけられた散水夫」)。(ちなみになんだけど、「登場人物」に焦点を当てると、これはちょっと違ってくる。登場人物は劇の中で、時間を飛び越えて存在する場合も大いにあるからだ。劇場空間には「劇の中の時間」と「劇の外の時間」という二つの時間軸が重なり合う。)そして、多くの演劇人が「ネット配信」での演劇の可能性を模索している。それはとっても意味のあることだと思うし、いま演劇人がやるべきチャレンジだと思う。演劇においても、演出家や俳優は「観客の視線」を意識して劇空間を設計していく。その瞬間、観客に、舞台上の「どこ/だれ」を見ていてほしいかを決め、そこに観客のフォーカスが集まるような演出を加えてドラマを組み立てていく。観客の視線を誘導しようとするのだ。そういった流れの中で、「物語を語る映画」が作られるようになる。当時はもちろんまだサイレントの映画しかないため、「映像の情報だけで観客が物語を理解できる題材」が選ばれる。現代、先進国に住む多くの人は人生で一度くらい映画を観たことがあるだろうし、その体験があった上で「一方向からの視点だけで撮られた」「編集の施されることのない」映像を観ると、「映像表現としての訴求力の弱さ」を感じてしまうだろう。そこから目を背けることはできない。演劇は、観客が受け取る情報に対しての制作者側のコントロール力が映画に比べて小さい。うまくいけば、50%ぐらいはコントロールできるかもしれない。うまくいけば、だが。大体において、観客と制作者のパワーバランスは対等だ。あと、「ピクチャーインピクチャー」を利用する演出家もたくさんいる。プロジェクターを使って舞台上に映像を映し出すのだ。録画された映像の場合もあれば、俳優やスタッフが手に持っているカメラからのライヴ映像を映し出す場合もある。まず、丸く切り抜かれた新聞の記事の映像が短く写り、そして急に画面が変わる。スクリーンの上に映写されることを前提とした映画では、さまざまな演出技法が工夫されている。僕にとって劇場で演劇を観る、という行為は、「そこに起こっていること/表出されているもの」を受け取る行為であると同時に、「そこには起こっていないこと/表出されていないもの」を受け取る行為でもあるのだ。もっと極端なことを言えば演劇の観客は、AとBが対話している場面にも関わらず、その背後にある窓の向こうを見続けるということだってできるのだ。基本的な前提として、映画は19世紀後半に、「現実を映像で記録する装置の発明」から生まれてきた。まず「写真機」というキカイが発明され、「動きも記録・再生できないだろうか」という疑問と欲求からキネトスコープやシネマトグラフといった「動画を記録・再現できるキカイ」が発明された。映画の生み出す虚構は、完全なる虚構だ。歪みのない、手の届かない虚構だ。僕は映画も大好きだ。中高大とめちゃめちゃ映画を観た。本数をたくさん観ることもしたけれど、同じ映画を何回も見返すような見方もした。だから、映画的表現にもリスペクトを持っているし、愛着もある。があることが理解できた。もちろん前述の通り、こういった要素を演劇表現の中に「限りなくそれっぽく」取り入れることはできる。が、映画と全く同じ効果が発揮されることはない。でも、これについて、ひとつの結論めいたものについて書く前に、きちんと段階を踏んで考えていかなければならない。そしてその過程を、みなさんと共有しなければいけない。演劇を撮影した動画を、インターネットを介して自宅にいる人々の手元に届ける。映画が上演される場所は映画館だ。片や、演劇が上演される場所は劇場だ。縦と横に切り取られたスクリーンに映し出されたものがすべてだ。何を、どの順序で、どの角度で、どれくらいの距離感で見るべきかが、撮影と編集の段階で決められている。映画の中にいる俳優たちの過ごしている時間と、観客の過ごしている時間は、一致しない。けれど、劇場で上演される演劇を観る、という行為においては、舞台上にいる俳優たちの過ごしている時間と観客の過ごしている時間は、一致している。同じ、地続きの時間を、共有していることになる。当然、そこに映し出される映画世界のなかには、縦と横のみならず奥行きも存在する。しかしそれらは映像情報としてフィルムやデジタルなメディアに保存されており、観客の目の前に再現されるときには、物理的な「奥行き」という情報は削られている。虚構としての奥行きがあるだけだ。2Dと3Dのどちらが優れているか、という話ではなく、ここでは特性を指摘している。僕が求めている「演劇体験」に比べて、ネットで配信される映像演劇は、格段に情報量が少ないのである。同時に、僕が求めている「(映画に代表される)映像体験」に比べても、ネットで配信される映像演劇は、格段に情報量が少ないようである。また、「月世界旅行」はスタジオで撮影されている。ゆえに背景にある風景のほとんどが「書き割り」で作られている。書き割りとは舞台美術でよく使われる手法で、紙や布に遠近感のある絵を描き、それを木枠に貼り付けたもののことを言う。しかしもちろん、いまや映画と演劇の表現技法は全く違う部分が多い。変わったあとの画面は演劇的な、一方向からの視点で構成されていて、そこには子どもとおばあさんの全身と、鳥籠、椅子や机といったものが映し出されている。映画は演劇の影響を多大に受けながら発展してきた。演劇も、映画の影響を受けている部分が大いにあるだろうと思う。そこで、どれだけ「劇場演劇的な」コンテンツを「これは演劇だよ」というパッケージで届けたとしても、観客の視聴体験は「劇場演劇」から遠いものになる。自分の客席から立ち上がり、舞台までツカツカと歩いていき、ハムレットやデズデモーナに触れることができる。触れた途端にその「歪み」は瞬く間に霧散し、出がらしのような現実がそこに立ちすくむだけなのは確実だけれど。家にあるディスプレイ(スマートフォンなり、PCなり、テレビなり)で観られることを前提とした映像表現をしようとすることは、映画のフィールドに足を踏み入れることと同義だ。スクリーン上の映像は、2Dの表現だ。縦と横に限定された範囲の内側に、映像が映される。と書いたので、今日は「なんで映画は家でも観ていられるのか」について考えてみたい。ちなみに、クロスカッティングやカットバック、フラッシュバック的な演出は演劇でも用いられることがある。エリア明かりを利用して、場面をすばやく切り替えるようなやり方だ。でももちろん、映画と全く同じようにはできないんだけど。映像になった演劇からは、あの不思議で魅力的な「なにもない空間」が失われてしまう。(もちろん、数ある演劇のなかには登場人物が観客を「認識する」ものもある。でも、そういうことを言い出すとキリがないので、いまは原則的に、登場人物は観客を認識しない、ということにする。原則的に。)映画は、観客が受け取る情報に対しての制作者側のコントロール力が限りなく大きい表現方法だと言える。制作側が100%のコントロール力を持つ。(話は脱線するが、書き割りが進化しそこに書かれる絵が写実的になると「ドロップ」という名称になるらしい。近代のSF映画によく使われた。もちろん、スターウォーズの旧3部作でも。)(もちろん、演劇との関わり方として「観る」ことに特化している方はそれでいい。でも僕は演劇を「する」立場なワケだから、「演劇の今後」を考え、それを実践していくことに責任がある。と、自分で勝手に思っている。)「月世界旅行」はこういった概念が流用されて作られたように見える。奥壁に背景、上手と下手、第四の壁の向こう側は登場人物たちには認識されない、しかし「前」を意識した劇空間が展開される。「月世界旅行」の分析が主題ではないのでこれくらいにするが、つまりなにを言いたいのかというと、映画ははじめ「記録」のために作られ始めたが、「物語を語る」という役割を担い始めると演劇の世界を参照しながら進化していくことになった、ということだ。ここまでは映画について、カメラとフィルムという記録メディアの特性について考えてきた。僕らは劇場の座席に座って演劇を観るときに、「なにもない空間」を観ることが許されている。そして、そこに漂う「空気感」みたいなものを受け取る自由を与えられている。当初の映画はいまでいうドキュメンタリー。それも、複雑な編集を伴うものではなく、定点に据えられたカメラが街のリアルな光景を「記録」するようなものだった(「工場の出口」「ラ・シオタ駅への列車の到着」など)。あるいは、そのふたりが立っている場所の上や、うしろや、横に広がっている空間。そこに「何が漂っているのか」「何が流れているのか」「何が居座っているのか」をも受け取ろうとしている。上にあげた映画技法のなかでも「パン」「ドリー」「ロング/ミディアム/クロースショット」なんかは「可動性のある視点」という特徴に起因しているし前述したように、演劇の場合、観客の視点は一方向に固定される。しかし、カメラを使った演出ではこのように、複数の視点からその状況を観察することができる。読んでくださってありがとうございました!サポートいただいたお金は、表現者として僕がパワーアップするためのいろいろに使わせていただきます。パフォーマンスで恩返しができますように。軽いし、低予算だし、場所を取らず、また、現実には存在しない想像上の場面を描くことができるという利点がある。一方、演劇には「現実としての奥行き」が存在する。つまり3Dの表現だ。舞台は幅と高さと奥行きを持っている。人間も幅と高さと奥行きを持ち、美術や小道具も幅と高さと奥行きを持つ。立体的な空間の中で表現が上演される。しかし、物語映画の段階になると、ロケだけでなく、今でいう「スタジオ撮影」によって撮影される作品も増えてくる。