施設案内。長崎県長崎市風頭山のホテル(旅館)矢太樓(やたろう|ヤタロウ)・矢太樓南館。夜景の見える客室・露天風呂・ご宴会のご案内。プランのご紹介しています。 しかしながら、この中ノ島も軍艦島の炭鉱閉山に伴い、軍艦島と一緒に放棄されました。軍艦島の歴史は江戸時代の小規模な採炭から始まりますが、やはりここの島の発展の端緒は、三菱財閥による炭鉱経営の開始によります。1890年(明治23年)に端島炭鉱の所有が鍋島家から三菱財閥に移り、そこから100年にわたりこの島は三菱の島となりました。1897年(明治30年)から1931年(昭和6年)にかけて島の周囲を段階的に埋め立てていき、1916年(大正5年)には日本初の鉄筋コンクリートのアパート(30号棟)が建設されました。端島が「軍艦島」と初めて呼ばれたのは1921年(大正10年)に長崎日日新聞が三菱重工長崎造船所で建造中だった「戦艦土佐」に似ていることから「軍艦島」と呼んだことから始まるようです。端島炭鉱は近隣の高島炭鉱とともに日本の近代化を支えた炭鉱でした。島の人口は最盛期の1960年(昭和35年)に5,267人となり人口密度は世界一、当時の東京特別区の9倍となり、島には役場、小中学校、店、病院、寺院、映画館など日常生活に必要なものから娯楽施設まですべてそろい栄華を極めましたが、エネルギー革命による石炭から石油への転換の過程で徐々に衰退し始め、機械化などの合理化を図ったものの数百万トンの石炭を残して1974年(昭和49年)1月15日に閉山。この時の住人は2,000人となっており、全員島を離れ、軍艦島は無人島となりました。2010年12月28日にヤフーブログを開設して以来、投資・写真・旅行・食べ物をテーマにブログを続けてきましたが、ヤフーブログの終了に伴い、アメブロに移動して、ブログ活動を続けていくことにしました。⑦左側が軍艦島、右側は中ノ島 確かに遠くから見たら軍艦のように見えますね!高島炭鉱は幕末に佐賀藩とトーマス・グラバーが共同で出資して採炭を始め、国内初の立坑(北渓井坑)を開削したことから始まり、1873年(明治6年)に官営、1881年(明治14年)に三菱財閥に払い下げられて以降は、三菱の経営の元本格的な採掘が始まりました。1966年(昭和41年)に採掘量のピークを迎え、1965年(昭和40年)には従業員3,000人、出炭量127万トンに達するもエネルギー革命のあおりを受け1986年(昭和61年)で閉山しました。戦艦武蔵を建造したことでも有名な造船所です。ここの向かいの香焼工場からは受注額の2倍の赤字を出したカーニバル社の大型豪華客船が建造されましたが、これが三菱の聖域とも言われた長崎造船所の地位を落とす引き金を引くきっかけとなりました。⑮アパートは1~71号棟まであり、1~71まで全てあるわけではなく4や9号棟は除かれています。灯台は肥前端島灯台といい1975年(昭和50年)に建設されたものです。⑧右側に別のクルーズ船がありますが、軍艦島の大きさの対比にぴったりですね!㉝岩崎弥太郎像 高島炭鉱と端島炭鉱の開発に尽力した人物ですからね。⑩この時は軍艦島に上陸はできませんでしたが、2019年8月9日から上陸ができるようになりました!⑥右側に見える白い建物が長崎造船所本館 この光景が見れるのは海側からのみです。長崎に行ったらなぜ人も軍艦島クルーズを楽しんだ方がいいと思います!㉖真ん中のレンガの建物が総合事務所、その奥の黒い建物が30号棟②イージス艦 この時はラッキーなことに日本にあるイージス艦6隻のうち2隻がこの長崎に整備のために来ていたらしいです。③第3ドック(世界遺産) 1905年に竣工した222.2m、建造能力3万トンのドックで竣工当時は東洋最大規模でした。その後、276.6m、9.5万トンに増強され、現役のドックです。明治時代に3つのドックが作られているものの現存するのはこの1つだけ。㉗世界遺産に登録されたのはこの軍艦島全体ではなく岸壁と海底坑道など一部分のみです。この島の大半の建物は世界遺産とは全く関係ないわけですね。。。しかも、世界遺産とは関係ないので、雨風にさらされて劣化しても補修等もなされず、数年のうちに建物の多くは自然に崩壊していくだろうとみられています。この風景は数年もしたら見れなくなってしまうかもしれません。⑬写真左手下が31号棟、その右隣の黒い正方形っぽい建物が1916年(大正5年)に日本初の鉄筋コンクリート製アパートの30号棟。30号棟は当初4階建てだったものを7階建てまで増築しています。30、31号館の上部には白い灯台があります。⑯護岸の部分にところどころ「穴」が開いています。これは、雨や波が島に入ってしまって水浸しになるのを避けるための、水を海に流すための穴です。㉓真ん中にぽつんと立っている社は1936年に建立された端島神社。閉山後も島は三菱マテリアルが所有していましたが、2001年に当時の高島町に無償譲渡され、2015年には「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」が世界文化遺産に登録されました。2018.11.30 わかりにくいですが右側にジャイアント・カンチレバークレーンがあり、これは世界遺産です。1909年(明治42年)に竣工し、同型のクレーンとしては日本で最初に導入された電動クレーンです。英国アップルビー社製で高さ62m、アームの長さ75mです。110年たった今でも現役で、現存するものは世界的にも少なく、歴史的価値があるとのことです。高島は本当によって少し資料館を見るだけで終わりだったので、もしまた機会があればもう少しじっくり見学したいと思います。中ノ島は現在無人島ですが、軍艦島同様、三菱のものと炭鉱開発がなされ、竪坑2本が掘削されるも、坑道での出水が多いことから1893年(明治26年)には操業を停止、炭鉱操業の中心を隣の軍艦島に移されました。その後は中ノ島は花見を楽しめるように桜が移植、浜辺も整備され、軍艦島の住人の身近なレジャースポットとなりました。また、軍艦島には火葬場や墓場がなかったことから、中ノ島がその役割を担っていました。⑤三菱重工長崎造船所 三菱財閥の基礎といえば海運業でしょうけど、財閥発展の基礎はこの長崎造船所をなくしてはあり得なかったでしょう。長崎造船所の歴史は江戸時代までさかのぼります。江戸幕府は1855年に長崎海軍伝習所(軍艦の操縦方法、造船、医学、語学を教える教育機関)を設置し、総監の永井尚志がオランダの協力のもとに同地に製鉄所を作りました。創設当時は長崎鎔鉄所という名前であったものが、1868年(明治元年)に官営長崎製鉄所(製鉄所という名前ではありますが、実際には造船所として機能)となり、1887年(明治20年)に岩崎弥太郎に払い下げられて長崎造船所となりました。①13時発の軍艦島クルーズです。やっぱり世界遺産に登録されたことで知名度が上がり、クルーズも人気になっているのでしょうか。いつでも予約できるだろうと思っていたら、旅行の1か月前にはどこのクルーズ船も満席になっていて何とか1つだけ空いているところを見つけました。焦りましたね、、、結構メインのつもりでいたので、いけないなんてなったら。友人にも示しがつきません。⑭もう感動!死んでもいいと思いましたね~笑 廃墟好きとして、世間が軍艦島を知らないかったであろう時期から、私はこの島を知っていて、いつか絶対に行きたいと思っていました。でも、中学生の当時、宮城県から長崎はあまりにも遠く、親に連れて行ってということはできませんでしたし、本やネットで見て行ったつもりになって満足していましたが、やっと実物を目にできたのですから。でも、ぜいたくを言えば、この建物の中に入りたかった。。。世界遺産になった今はもう無理ですし、そもそも、老朽化が激しく、死ぬ覚悟じゃないと無理ですけどね。