「夏はいちばん好きな季節。ウクレレの音色もよく似合う」と、高木ブーさんは言う。今年はコロナ禍で外出もままならない状況だが、去年までこの時期は各地のフェスやイベントで演奏と歌声を披露していた。時に家族も同行して、お祭りなど観光を楽しむこともあるとか。 高木 ブー(たかぎ ブー、boo Takagi 、1933年〈昭和8年〉3月8日 - )は、日本の男性コメディアン、ミュージシャン(ウクレレ奏者、ギタリスト)、お笑いタレント、俳優、Youtuber。 ザ・ドリフターズのメンバー。 イザワオフィス所属。. 高木ブーさんは15歳のときにお兄さんからウクレレをプレゼントされてすっかりハマってしまいます。 その腕前は2008年に大好きなハワイの最高名誉なワイコロア・ウクレレ・フェスティバルにプロ奏者として招待されるほど 。 高木ブーさんにとってウクレレは、いわば人生のパートナーである。15歳の時のウクレレとの出合いがなかったら、ザ・ドリフターズのメンバーになることもなく、現在のミュージシャンとしての活躍もなかった。どんなきっかけでウクレレを手にして、どうのめり込んで行ったのか。 ”雷様”ことザ・ドリフターズの高木ブー(87) が、YouTubeでウクレレ教室をスタートします 目指せ!みんなで ウクレレ LIVE出演 !? 高木ブーさんの人間性とハワイアンメロディが合っている気がします。 ということで、高木ブーさんは現在もウクレレを弾いて元気に過ごされていました。 今後もまたドリフターズのメンバーで集まって、元気な姿を見せて欲しいと思います!
また、いかりやは、ドリフの中で最も音楽性が高いのは高木であるとも語っており、バンドマン出身であるドリフの特徴を最も残すメンバーとして評価していたこともうかがえる。ドリフ加入し、その後、ハロナ・セレナーダス時代の仲間の青木健たちと共に「高木ブーとニュー・ハロナ」を結成するなど、ウクレレ奏者としての活動も盛んになる。先述の2001年に開いた自身の店「ブーズバー・ハロナ」店内では、定期的にミニコンサートを行ったほか、ウクレレ教室も開き青木健と共にウクレレを指導した。しかし、時には周囲が唖然とし、場の空気を一変させてしまうほどのシュールな振る舞いやハイテンション(特に、三人ジイさん)な演技を見せ、どこまでが本気でどこからが冗談なのか判然としない天然な持ち味もあり、その芸風は単純にひと括りにはできない。また『ダウンタウンDX』では「いかりやから貰った弁当の海老フライをいかりやに取られ逆上した」「『俺の給料を上げろ!』といかりやの元に単身抗議しに行った」と、のんびりかつ大人しいイメージとは裏腹のエピソードを語っている。このドリフターズ加入について、高木本人は「自分(がリーダー)のバンドを持っていたから入りたくなかったけど説得されて入った」と述べている。ちなみに、ドリフターズに移籍するにあたって給料の値上げを要求しようとしたが、うまく言い出せず、「娘が産まれたばかりでミルク代がかかる」などといった世間話を30分ほども続けた末に、やっと給料の値上げを要求していることをいかりやに気付いてもらえ、給料5000円アップで交渉が成立したという。特徴としては、高木ブーのコントギャグは一発ネタ傾向が多いことが挙げられる。これには、「1ページの志村、半ページの長介、3行の仲本、1行の加藤、感嘆詞のブー」と映画出演の際に揶揄されたほど、セリフ覚えが悪い事から。唯一饒舌気味の雷様・3人ジィさんも、ほとんどアドリブに近いノリで、実質高木のギャグは一発ネタ気味である。ドリフ大爆笑のサウナコントでは全身入れ墨メイクで登場し無言で他のメンバーを威圧する役もやったことがある。 高木ブーとウクレレ. たぶん、楽器を持ってるヤツなら誰でもよかったんだと思う。僕もいいかげんだから、弾けもしないのに「やります」なんて言っちゃった。僕の人生、何となく流されてっていう場面が多いんだよね。ほかのメンバーに簡単なコードを教えてもらっているうちに、夏祭りの当日がやってきた。客席にはお客さんがぎっしり詰めかけてる。「ちょっと俺にもやらせて」って言って彼が弾いたら、うまいのなんの。僕なんて足元にも及ばない。聞いたら、兄貴が立教大学でウクレレをやってるらしい。当時、大学のハワイアンバンドでは慶應と立教が名門だったんだよね。高木ブーさんにとってウクレレは、いわば人生のパートナーである。15歳の時のウクレレとの出合いがなかったら、ザ・ドリフターズのメンバーになることもなく、現在のミュージシャンとしての活躍もなかった。どんなきっかけでウクレレを手にして、どうのめり込んで行ったのか。ウクレレを持ったブーさんに聞いた。(聞き手・石原壮一郎)あっ、買ってもらっておいて悪いけど、恩人の中に兄貴は入ってない。もちろん恩は感じてるよ。でも、身内だから勘定に入れなくていいよね。そっから自己流で練習を重ねて、翌年の春に高校に入った頃は、いちおう弾けるようになってた。学校でもウクレレを持つヤツが増えてきて、そいつらに弾き方を教えたりなんかして、ひそかに「この学校では自分がいちばんうまい」なんて思ってたりもしてね。そんな時に転校してきたのが、3人目の恩人の古川和彦君。もうヤケだった。演奏したのは5、6曲かな。僕は覚えたての「G」のコードをひたすらかき鳴らしてただけだけど、ふと客席を見ると、大勢のお客さんが自分たちの演奏に合わせて、体を揺らしたり拍手したりしてる。気持ちよかったなあ。増田さんが誘ってくれたあの夏祭りのステージが、僕をウクレレの道に引きずり込んだんだよね。彼は高校の頃から「プロになりたい」って言ってて、その言葉どおり、卒業するとすぐに有名なハワイアンバンドの一員になった。僕とはある意味ウクレレのライバルだったわけだけど、先を越されて悔しいとは、ぜんぜん思わなかったな。ちゃんと腕前を評価してもらえてよかったって、僕も嬉しかった。ABJマークは、この電子書店・電子書籍配信サービスが、著作権者からコンテンツ使用許諾を得た正規版配信サービスであることを示す登録商標(登録番号6091713号)です。ウクレレは50本以上所有している。写真は野村義男さんから贈られた高木さんオリジナルのウクレレ僕には人生の恩人と言える人が3人いる。ひとりは、いかりや長介さん。ほかのバンドにいた僕に、長さんが「ザ・ドリフターズに来ないか」と言ってくれなかったら、「高木ブー」は生まれてないし、この歳まで仕事をやれてないよね。もちろん、弾き方なんてわからない。せっかくあるからと思って、たまにポロロンってやるぐらいで、すっかりほこりをかぶってた。そうこうしているうち夏が近づいてきて、趣味でスチールギターをやってた知り合いの増田進さんが、「(当時住んでいた)柏の夏祭りでハワイアンをやろうと思うんだけど、いっしょにやらないか」って誘ってくれた。それから古川君とはすっかり仲良くなって、南千住の彼の家にしょっちゅう泊まり込んで、いっしょにウクレレの練習をやってた。教則本なんてないから、レコードを何度も聴きながら、「この音はどうやって出すんだろう」ってあれこれ試行錯誤したりして。たいていは上手な古川君が弾き方を見つけて、それを僕が教えてもらってたんだけど。その兄貴が、何を思ったか、僕の15歳の誕生日にいきなりウクレレをプレゼントしてくれた。えーっと、1948(昭和23)年だから、まだ戦争が終わってすぐの頃だね。ねだったわけでもないし、楽器に興味があったわけでもない。なんで買ってくれたのかあとで聞いてみたけど、「なんでかな。俺もよくわからないんだ」って笑ってたな。今でも、常にって言うと言い過ぎだけど、ウクレレを持つとたまにふたりのことを思い出します。いろんな巡り合わせのおかげで自分は今ここにいるんだな、なんてことも考えたりする。長生きしている僕が、ふたりの分までがんばって弾き続けなきゃね。1963年三重県生まれ。コラムニスト。「大人養成講座」「大人力検定」など著書多数。この連載ではブーさんの言葉を通じて、高齢者が幸せに暮らすためのヒントを探求している。1933年東京生まれ。中央大学経済学部卒。いくつかのバンドを経て、1964年にザ・ドリフターズに加入。超人気テレビ番組『8時だョ!全員集合』などで、国民的な人気者となる。1990年代後半以降はウクレレ奏者として活躍し、日本にウクレレブーム、ハワイアンブームをもたらした。CD『美女とYABOO!~ハワイアンサウンドによる昭和歌謡名曲集~』など多数。著書に『第5の男 どこにでもいる僕』(朝日新聞社)など。2月16日にハワイで開催される「ウクレレ・ピクニック・イン・ハワイ」に出演!あとのふたりは、10代の頃、僕にウクレレの魅力と奥深さを教えてくれた人たち。ウクレレとのそもそもの出合いは、3番目の兄貴の気まぐれがきっかけだった。兄貴はハワイアンにはまっていて、当時大人気だった灰田勝彦さん・晴彦さん兄弟の追っかけみたいなことをしてたんだよね。 高木ブーさんが出演されます。 おなじみのアロハ姿でウクレレを持って出演さます。 現在もウクレレ教室で指導し、自らステージに立つ.