2019.7.19; 新選組, 幕末【日本】1853~1868年, 『な』行, 江戸時代【日本】1603~1868年, 明治【日本】1868~1912年; コメントを書く 【永倉新八】新撰組最強の二番組長!小樽での晩年の逸話がすごかった
しかしもう70歳を超えていた体で、今だったら90歳近い年齢だったので、当然家族は断りましたが、剣術に愛着を持っていた永倉は『形だけ教えるから』と周りを懇願して参加。つぎに、永倉が余生を小樽で過ごしていたというエピソードについてみていきます。警官になった斉藤はともかく、永倉は警官でも軍人でもなかったので、唯一の取り柄である刀が持てなくなった際、さも肩身の狭い思いだったと思います。(ちなみに三番隊組長は『斉藤終(さいとうしまる)』という名前なのですが、こちらは無口なアフロヘア―の男として結構登場しています)次に、永倉と同じ新選組三強といわれる、沖田総司と斎藤一と彼の関係についてみていきます。奇しくもこの8か月後の9月28日には、斎藤も胃潰瘍で72歳で亡くなりました。90年代の週刊連載時代から構想されていた『北海道編』で永倉は登場させる予定だったようですが、一旦お蔵入りになっていました。やがて新選組の幹部として歴史の中に立つことは、その時には想像していなかったでしょう。その一方で44歳らしく、酸いも甘いもかみ分けた大人らしい面もあります。「近藤、土方は若くして死んでしまったが、自分は命永らえたおかげで、このような文明の不思議を見ることができた」と語ったことも。永倉新八は1839年5月23日、北海道松前藩(函館よりさらに南の、現代の松前郡を統治していた藩で、アイヌ人シャクシャインの反乱を鎮圧した藩でもありました)で、幕府との連絡役であった長倉勘次の次男として生まれました。晩年の彼は「竹刀の音を聞かないと飯が喉を通らない」「自分は剣術の他に能がない」と言ったといわれています。明治になっても平均寿命50歳弱で、永倉は当時としてはかなり高齢ということもありますし、この時の戦はもう銃火器を撃ち合うのがメインで、ましてや抜刀隊に入れても足手まといという思いも上にはあったのでしょう。アニメ声優は阪口大助、実写映画版ではイケメン俳優の菅田将暉が演じております。(島田は維新後、一度士族の商法で失敗した後、剣術道場主や夜間警備員を務め、山野は京都の小学校の用務員、中島も士族の商法で失敗した後、葉蘭(はらん。和食の飾りによく使われるスズランの仲間)や花火の制作・商売をしております)杉村義衛と改名してからも、刑務所で剣の先生を務め、年老いてからも大学の剣道を指導した彼。しかしこの時に沖田は途中で戦線離脱(血を吐いたというのはフィクションという向きが強くなっています)、藤堂は折の暑さで頭を守る鉢金をはずしたところ、頭を斬られ重傷。(『沖田が池田屋事件で喀血した』というのは、子母澤寛(しもざわかん)が1928年になって出版した小説『新選組始末記』が最初だったといわれます)あくまで試衛館の用心棒として、一生を終えるつもりだったのでしょうか、それとも?しかしながら、鳥羽・伏見の戦いで最新式の銃をそろえた新政府軍に、刀しか取り柄のない自分たちが完敗していくのを見た時にはショックだったのか、と思いますね。今回北海道編を改めて連載するにあたって、史実でも北海道に住んでいた永倉が登場という形になりました。こののちには近藤らとともに幕臣に取り立てられるなどの出世もしましたが、やがて油小路事件など、新選組の内部抗争の鎮圧もしなければならない立場となりました。江戸後期になるとどこの武士も貧窮することが多く、後継ぎの長男は『惣領』と呼ばれるのに対し、弟たちは『厄介』『冷や飯ぐらい』と呼ばれ、他家に養子に行けるかどうかが鍵となっていました。無鉄砲でがむしゃらな性格で『我無新(がむしん。がむしゃら+新八)』と呼ばれた彼。(刀が入った仕込み杖で追い払ったという説もあります。やはり『くぐった修羅場の数が違う』ということなのでしょうか。)しかし元脱藩浪人のためか、『近藤の同志ではあっても部下ではない』という思いが最後まであったよう。(ただ近藤とはあくまで『同志』であって『部下ではない』というプライドが当初からあったようでした。永倉は松前藩の脱藩浪人に対し、近藤は中の上とはいえ農民の家の生まれということもあったようですが)(ちなみに沖田も『背が高く、肩が張りあがっていた』つまりスポーツマンのような体格だったという証言があります。ただし、美男だったという証言は皆無。)「『幹部系隊士の中で』維新後も永倉と斎藤だけが生き残った」とまとめたほうがいいでしょう。新選組がモデルの真選組の二番隊組長に『永倉新七(ながくらしんしち)』という名前がある程度。江戸の下谷三味線堀(したやしゃみせんぼり。現代の東京都台東区小島2丁目で、榎本武揚もここで生まれたといわれています)にあった松前藩の上屋敷(かみやしき。藩士のうち責任の重い仕事をしていた者たちが江戸に滞在する際の屋敷)で生まれます。(ちなみに、アニメ新八は仲間たちから散々『ダメガネ』『ヘタレ』『人間をかけたメガネ』等といわれているため、三次元(実写)で菅田将暉が演じていることを強調してイケメンキャラになりたがっているようです……)東京帝国大学農科大学(現・北海道大学)の剣道部員が、最晩年の永倉に指導を頼みました。当初は自分より強い剣客に会い、自分の剣の腕を極限まで上げようとしていた永倉。その一方で、甲州勝沼の戦いで新選組が敗北した折、永倉は原田とともに近藤と袂を分かったのに対し、斉藤は会津まで新選組に同行するという考え方の違いも見せました。新選組は近藤と土方は農村地主、沖田や永倉は浪人の生まれと出自もばらばらで『烏合の衆』という要素が強かったでしょう。るろうに剣心では数少ない新選組幹部の生き残りなためか、そのつながりは史実以上のように描かれ、斉藤の連絡に合わせて当時樺戸集治監剣術師範であった永倉が斉藤たちの元に来ています。だからこそ、せめて刀だけでも立派なものにしたかったのでしょうし、すぐに折れるぼろ刀では、幕末の時代を生き残れなかった可能性が高いですね。最初に屯所が置かれた八木家の証言によると永倉は『でっぷりした立派な体格の持ち主』だったそうなので、筋力もかなりなものだったと思われます。(正確には、永倉自身が登場するのはるろ剣だけで、銀魂には永倉は登場せず、彼の名前を使った人物が登場します)刀鍛冶「氏繁」は姫路出身で、寛政の改革を行った松平定信に気に入られ、白河松平家(現在の福島県白河市を収めていた藩)の御用鍛冶として多くの刀を作り上げていきました。しかしその中で剣術を極め、より広い世の中を見ようとして脱藩したあたりは、あくまで剣術に生きようとする姿勢がうかがえます。これが事実ならば、剣術修行のため脱藩した彼が、最期まで剣術にこだわって向上させようとする姿勢がうかがえます。彼の回顧録から小樽新聞に『新選組顛末記(しんせんぐみてんまつき)』が1913年連載され、悪の権化とされた新選組への再評価が行われるようになっていきました。池田屋事件以降近藤が天狗になってくると、彼の横柄なふるまいを書き記した『非行五か条』を、島田や斉藤や十番隊組長・原田左之助らとともに上司の松平容保に提出して止めようとしております。一方で永倉と沖田・斉藤の関係についてみてみると、『同志』として行動を共にしつつも突き上げることが多かった近藤に比べて、印象に非常に欠けます。(ちなみに史実の斎藤は、土方歳三率いる別動隊の一員として参加し、池田屋事件鎮圧直前に池田屋に到着しています。)先ほど話した、増長した近藤を諫めるために会津藩に提出した『非行五か条』の中に、永倉とともに斉藤の名前もありました。また彼らは新選組の撃剣師範も務め、新選組隊士の剣術の腕の向上に一役買っておりました。彼を樺戸集治監の剣術師範として雇ったのは月形潔(つきがたきよし。今も北海道にその名字が残っています)でしたが、彼は尊王討幕派の福岡藩士だったから、かつての敵の下で使われるというのもつらかったと思いますね。松前藩は幕末、その中でもかなり財政的に貧窮していたらしく、新八は松前藩の下で一生安泰で暮らせるかどうか疑問を持っていたんじゃないでしょうか。後の永倉の記録でも「沖田は肺病を持っていた」とあるだけで、それが肺結核とは言っていなかったようです。晩年酒に酔うとふんどし一枚となり、刀傷や銃創を見せながら、「お国のために働いた体だ、わしの誇りだ」というのが癖だったそうです。その後は友人であった芳賀宜道と原田左之助と共に靖兵隊(せいへいたい)として幕府に抵抗しますが、会津藩降伏を知ると事実上抵抗をあきらめて江戸に行き、そこで新政府軍についていた松前藩から、戻ってきていいという命令が下ります。るろ剣の龍飛剣の全貌はまだ明らかになっていませんが、彼が敵に対しどのように対抗していくのか、気になるところです。池田屋事件の時には『帽子』と呼ばれる切っ先に近い部分が折れた記録がありましたから、それだけ戦を重ねてきたことがうかがえます。親の仇に会っていきり立つ少年をたしなめたり、待ちの姿勢でありながらも剣の腕は立っていたりと実力も確か。(逆をいえば、月形は永倉の腕を見込んで師範にしたのだから、清濁併せ呑む器の大きさはそれなりということなのでしょうが)(余談ですが笑ゥせぇるすまんが「芸は身を助けるというが、芸によって結ばれた絆は実に固い」とこぼしています。永倉もそうなんでしょうなァ)元々北海道出身の人間とはいえ、元新選組であった彼の世間の風当たりは強かったものと思われます。『るろうに剣心』の斎藤の有名なセリフに「お前達とはくぐった修羅場の数が違うんだよ」がありますが、永倉も負けず劣らず、池田屋事件、油小路事件と数々の修羅場を潜り抜け、最終的には幕臣の地位まで上り詰めます。結局、学生が彼を馬車に乗せ、抱きかかえて彼の自宅に連れて帰ったそうです。永倉と特に親しかったという記録は特にありませんが、永倉にとって沖田の剣の腕はインパクトが強かったよう。その後は今の東京新宿区あたりで剣術道場を開いた後、1899年に妻子が経営する薬局を見るために再び小樽へ戻ります。その一方で、自身の全盛期を作った新選組の名誉挽回のための行動も忘れず。それでも刀一本で敵陣に突撃しようとしたり、近藤の怪我が完治するまでは土方に代わって隊長代理を務めたりするあたりは、それだけ人望があり、土方の信頼も厚かったものと思われます。次に、『永倉新八最強説』つまり沖田以上に永倉は強かったという説についてみていきます。しかしその中で無事刑務所の剣術師範となったり、東京で道場を開いて生計を立ててそこそこやってきたあたりは、それだけ彼の剣の腕(神道無念流はかなり有名ということもありましたが)が優れていたといえましょう。1863年2月に、京都へ行く将軍・徳川家茂の警護を目的に浪士組が募集されると、近藤とともに参加。34歳の時に第二の人生が始まりました。(同じころ斉藤もまた、妻の母方の姓である藤田姓を名乗り、藤田五郎と改名しています)戦国時代では朝倉家のように、家臣に名刀を欲することを禁止する大名もいましたが、天下泰平の江戸時代になって、武士以外のほとんどの人間が刀を持てなくなると、『刀は武士であることの身分証明であるとともに、魂でもある』という考えが定着していきました。ある意味永倉も、近藤・土方・沖田と比べると地味なので、彼のポジションを考えた設定といえましょうか。(ちなみにこの時板垣は『乾退助(いぬいたいすけ)』と名乗っていましたが、岩倉から「武田家臣であった板垣に姓を戻して、甲州の人間の支持を得たほうがいい」と言われて板垣姓に戻し、それが新政府軍の勝利につながったといわれています)が理由だそうです。実際、主人公の緋村剣心や斎藤一が池田屋事件に参加していないにもかかわらず、やがて改名をし、明治の代で廃刀令が出され、軍人と警官以外は刀を持てなくなります。新選組隊士だったものの後に袂を分かち、討幕派の御陵衛士(ごりょうえじ)、および赤報隊二番隊に入ることになる阿部十郎によりますと、ただ永倉の証言では「池田屋事件において沖田が昏倒した」とあるだけで、血を吐いたという証言はないようです。幕末から明治を生き抜き、激動の人生ではありましたが、時代からそっぽを向かれても剣術を手放さなかったのは、彼の剣への情熱といえましょうか。大河ドラマ『新選組!』が終わって15年以上たちますが、今再び永倉が注目されようとしています。やたらスキンシップも2人にしているあたり、剣心も斉藤も彼を多少うっとうしがっているようです。これに対し永倉は、「元新選組の手を借りたとあっては、薩摩の連中も面目丸つぶれというわけかい」と自嘲したといわれています。次に、永倉が数少ない新選組の生き残りという点についてみていきます。武者修行時代に知り合った島田魁が1900年、京都で死んだときにはその葬儀にも参加。実戦においてはというと、池田屋事件の時に永倉は沖田、および幕末三大剣術・北辰一刀流の達人であった藤堂平助、そして近藤と共に、天皇を連れ出そうとする浪士20数名の中に切り込んだといわれています。