夏目漱石の「夢十夜」第三夜について紹介。「自分」が背負う盲目の子供。奇妙な言動を繰り返す子供に導かれ、たどり着いた杉の根で「自分」が思い出したこととは?この記事では、「夢十夜」第三夜のあらすじや見どころについて詳しく解説しています。
おれは人殺しであったんだなと始めて気がついた途端に、背中の子が急に石地蔵のように重くなった。そんな子供に得も言われぬ不気味さを覚えた「自分」は、近くにあった大きな森に子供を捨て去ろうと考えた。百年前の記憶を持つ子供にとっては、周囲の状況を言い当てたり、道を誘導したりすることはさぞ容易かったでしょう。第三夜は一度最後まで読んでみた後、子供の正体を知ったうえでもう一度頭から読み直すと、子供の言動にいちいち納得して「そういうことだったのか!」と得心すること間違いなしです。その言葉を聞いた途端、「自分」は今から百年前の晩に、この杉の根で一人の盲目を殺めたという事実を思い出した。まず、実際にこの子供がどのように奇妙なのかというところを、実際の本文を引用しつつ紹介しますね。ただでさえ妙に大人びていて不思議な子供なのに、このうえ予知めいたことまでし始めたらもう普通の人は若干パニックになってしまいますよね……。ここからの文章が個人的にとても好きなので、以下に引用させていただきますね。本文では描かれなかった「自分」のその後を想像すると、無性に後味の悪さを覚えますが、そういったところも含めて「夢十夜」第三夜の魅力だなと感じます。「昔の時代の作品でも、今風に読み解けばこんなに面白い!」がコンセプトの「めちゃエモ文学館」を運営しています。主に日本近代文学が好き!普段はWebライターをしています。芥川龍之介「蜜柑」を徹底解説!都会の男が見た眩しい黄金の光景とは© 2020 めちゃエモ文学館 All rights reserved.罪を自覚し、子供が途端に重くなった後、一体「自分」はどうなったのか……。子供は相変わらず、周りの景色や道について、とても詳しい素振りを見せるんですね。自分でも把握しきれない、輪郭のぼんやりとした事柄が、子供の言葉を以て徐々に明確になっていくシーンで、読んでいていつも鳥肌が立ってしまいます……。自身が人殺しであったことを自覚した途端、背中の子供が急に重たくなった。六つになる子供を負ってる。たしかに自分の子である。ただ不思議な事にはいつの間にか眼が潰れて、青坊主になっている。自分が御前の眼はいつ潰れたのかいと聞くと、なに昔からさと答えた。声は子供の声に相違ないが、言葉つきはまるで大人である。しかも対等だ。語り手である「自分」は、六つの子供を背負い、田圃道を歩いている。「昔の時代の作品でも、今風に読み解けばこんなに面白い!」がコンセプトの「めちゃエモ文学館」を運営しています。主に日本近代文学が好き!目が見えないはずなのに、その子供は妙に大人びた口調で、周囲の状況を次々と言い当てていく。いよいよ子供への恐怖心が高まってきた「自分」は、早く子供を捨ててしまおうと足早に道を急ぎます。自分は我子ながら少し怖くなった。こんなものを背負っていては、この先どうなるか分らない。雨はさっきから降っている。路はだんだん暗くなる。ほとんど夢中である。ただ背中に小さい小僧がくっついていて、その小僧が自分の過去、現在、未来をことごとく照して、寸分の事実も洩もらさない鏡のように光っている。しかもそれが自分の子である。そうして盲目である。自分はたまらなくなった。小川未明「赤い蝋燭と人魚」を徹底解説!人間のエゴと人魚の悲しみの行方「自分」が百年前に殺人を犯したと自覚しただけで、なぜ背中の子供が急に重たくなったのか?周囲の状況だけでなく、語り手である「自分」の考えていることまで的確に言い当てていく子供に、「自分」の恐怖心は限界を迎えそうになる。それではここから、「夢十夜」第三夜の見どころについてじっくり解説していきます!読み手としては、「なぜ盲目なのに周りのことが分かるんだろう?」と疑問に思うところですが、語り手である「自分」も同様のことを考えます。宮沢賢治「眼にて云ふ」を徹底解説!当事者と第三者での捉え方の違い
第三夜は、自分の子供をおぶって歩く話です。その子供は目が見えません。主人公はこの子供をどこかに捨てていこうと考えます。子供は目が見えないのに、主人公に指示を出していきます。目的地に着くと、子供は主人公に向けて言います。第九夜は、戦が始まる頃に帰ってこなくなってしまった夫の帰りを、子供の世話をしながら待つ女の話です。女は子供をあれやこれやと世話をしながら御百度参りをします。子供がおとなしくしているときはよいですが、泣き出したりすると苦労しました。最後がなかなか後味悪いです。「殺されていたのである。」で終わっていればちょっと後味の悪い話ですが、「こんな悲しい話を、夢の中で母から聞た。」の最後の一言が後味の悪さを500倍くらい増長しています。私は特に第一夜の話が好きです。詳しい話はあとでネタバレありの感想で書きますが、最初の一行から最後まで、「なんて美しいのだろう。」と思いながら読みました。使う言葉や表現も美しいですし、物語全体に漂う純真で儚げな雰囲気も美しいです。第二夜は、悟りを開こうとする侍の話です。和尚に焚き付けられ、何が何でも悟ろうと努力する侍の話です。「悟ろう悟ろう」と思うがために無心になれずに空回りする姿がコミカルです。「悟って和尚を殺す」という決心をしていたりして、なんともチグハグな侍です。最後は時計がチーンとなり始めて終わってしまいます。不思議な雰囲気だけを残して、結果は語られずに終わってしまいます。10個の夢の話。それぞれの夢に関連性はなく、短い話のオムニバス。死に際の女と「百年待っている。」という約束をする第一夜をはじめ、幻想的な作品群。「御父さん、その杉の根の処だったね」「お前がおれを殺したのは今から丁度百年前だね」第八夜は、床屋で鏡越しに外を眺めるお話です。髪を切ってもらいながら、あんなものやこんなものが見えたと言って、最後は店を出る時に金魚屋の金魚を見て終わりです。なんにもないストーリーですが、色(の描写)が鮮やかで綺麗でした。女が言う通りに豚が鼻を鳴らしてやってくるのですが、庄太郎は持っていたステッキで豚の鼻を打ちます。すると豚は絶壁から下へ落ちていきます。次から次へと豚がやってくるのですが、庄太郎はことごとくステッキで打ち、豚たちはことごとく絶壁から落ちていきます。これがシュール過ぎて笑えました。まさか最後の最後にこんな頭のおかしい話を持ってくるなんて、完全に予想外でした。このフレーズは夢十夜の中で私が一番好きなフレーズです。あまりの美しさに心奪われました。夏目漱石の作品を読んでいて、こんなに詩的に感動したフレーズは初めてでした。とても素敵で、だからこそこの第一夜が私の一番のお気に入りです。という感じで、脈略も統一感もない幻想ストーリーが10個入ったオムニバスです。「なんだこりゃ?」っていうのも入っていましたが、全体的に夏目漱石っぽくない感じを楽しめました。パッと読めて、パッと雰囲気に浸れるお手軽感も良かったと思います。では、この美しさがそのあとの話にも続くかというとそういうわけでもなく、一夜一夜別々の雰囲気があって、それぞれの不思議さを楽しむことができます。きっちりとストーリーを終わらせる話もありますし、「え?これで終わり?」と思うような謎の話もあったりして、いろいろな楽しみ方のできる小説でした。日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)自分が人殺しであったことに気付いた途端、背中の子が急に石地蔵のように重たくなって物語は終わります。唐突なホラー話です。最後のオチだけでなく、不気味な描写が多く、全体的に怖いお話でした。
「夢十夜」第二夜『こんな夢を見た。和尚の室を退がって,廊下伝いに自分の部屋へ帰ると…』「侍なのに無を悟れていない」と和尚に馬鹿にされた自分は,悟りを開いて和尚を斬るか,悟りを開けず切腹するかの二択を自らに課し,悟りを開くため無についてひたすら考える。 第二夜 こんな夢を見た。 和尚 ( おしょう ) の室を 退 ( さ ) がって、 廊下 ( ろうか ) 伝 ( づた ) いに自分の部屋へ帰ると 行灯 ( あんどう ) がぼんやり 点 ( とも ) っている。 小説が難解だと感じた方はもちろん、もっと深く知りたいと思った方にもおすすめ。漫画で「面白い!」と思ったら、ぜひ小説も手に取ってみてくださいね。庄太郎は「善良な正直者」ですが、往来で女の顔を見たり水菓子(果物)を眺めてばかりいる怠け者でもあります。そんな庄太郎が大嫌いな豚は、労働の象徴とも考えることができます。そんな労働の象徴が絶え間なくやって来る……なんだか、新聞連載をしていた漱石の姿とも重ねることができそうです。「百年待っていてください」「百年はもう来ていたんだな」という名言と、夢のなかでも唯一のハッピーエンドということで有名な話です。老人が「手ぬぐいを蛇に変える」と言いながら笛を吹いたり踊ったりしています。「今になる、蛇になる」と唄いながら河に入っていった老人を「自分」はいつまでも待っていますが、とうとう河から上がってくることはありませんでした。自分は野次馬の男の1人から「あれは仁王を彫っているんじゃない、木の中に埋まっている仁王を掘り出すまでだ」と聞き、さっそく手頃な木から仁王を彫り当てようとします。しかし仁王は見つからず、「明治の木にはとうてい仁王は埋っていないものだと」悟るのです。女の「真っ白な頬」と「真っ白な百合」。女が死ぬ間際、「長い睫の間から涙が頬へ垂れた」のと、百合に「ぽたりと露が落ちた」こと。よく読んでみると、「女」と「真白な百合」の繋がりがわかります。また、「百合」という花自体、「『百』年目に『合』う」と解釈することもできます。第十夜は特に解釈の分かれる話です。さらわれた庄太郎が語る、「豚」という存在はどういうものだったのか。他の夢との関連とは。さまざまな考察から、漱石の伝えたいことは何だったのかについて考えていきましょう。「自分」は侍でした。和尚に「侍なら悟れぬはずはなかろう」と笑われ、「きっと悟って見せる」「悟れなければ切腹する」と誓い、「無」について考えますが、ついに無にはたどり着けません。「自分」は、死にそうには見えないけれど「もう死にます」という女から、「死んだら、埋めてください」「百年待っていて下さい。きっと逢いに来ますから」と頼まれます。そして女は死んでしまい、自分は約束通り墓を作り、太陽が沈むのを数えながら待ちます。これは鎌倉時代にはあった「芸術」が、明治になって失われてしまったということを意味しているのではないかと言われています。もちろん、明治には明治の芸術があるのでしょう。しかし、それは鎌倉時代の方法では掘り当てることはできません。自分の力で方法を探さなければいけないのです作者はいわずと知れた、明治から大正にかけての小説家です。『吾輩は猫である』で文壇にデビューし、『坊ちゃん』『こころ』などを発表。『夢十夜』は、1話づつ、朝日新聞で連載された作品です。特徴的な書き出し、「こんな夢を見た」から始まる10編の短編集となっています。第六夜は、「自分」の時代(明治時代)に運慶が生きていて、護国寺の山門で仁王を彫っている話です。謎多き第十夜は、読者の読解力を試すような、それでいて夢というつかめないものであり、真実などないような、掴みきれない魅力のあるストーリーです。戦に敗れた「自分」は、捕虜となって敵の大将の前に引き出されます。「死ぬ前に恋人に会いたい」と言う自分に、大将は夜が明けるまで処刑を待ってくれると言いました。同時に、女が馬に乗って駆けだす情景が描かれます。女は必死に駆けますが、鶏の鳴く声を聞いて淵へ落ちてしまうのでした。庄太郎をさらっていった女は、絶壁で彼に向って「ここから飛び込んで御覧なさい」と言います。これは、庄太郎を性的に誘っているとも捉えることもできます。そう考えると、とめどなく押し寄せてくる豚は、女の性欲の象徴でしょうか。もしこの考察が正しければ、庄太郎が豚と戦い始めてから女が一切登場しなくなったことや、ラストで健さんが「だからあんまり女を見るのは善くないよ」と言ったこととも整合が取れているのではないでしょうか。「自分」は船に乗っていますが、どこに行くのか、なぜ乗っているのかさっぱり分かりません。船のサロンでピアノを弾く女を見ているうちに虚しくなって死ぬことにしました。しかし足が船を離れたとたん、命が惜しくなってしまいます。「どこへ行くんだか判らない船でも、やっぱり乗っている方がよかった」という言葉は、あと一歩でまったく違う物語になっていたであろうことを感じさせる、危うさを感じさせるものです。 本作は映画だけでなく、漫画化もされています。その摩訶不思議な世界観は、漫画作品にもよくマッチしています。本作は『ユメ十夜』として、2007年に映画化もされています。不気味で幻想的な雰囲気はそのままにわかりやすく解釈されているので、こちらもおすすめです。また周りの「下馬評」に耳を傾けず、「ただ仁王と我れとあるのみと云う態度」の運慶は、漱石が目指す芸術家の姿だとも考えられます。そして芸術家が昔のように一心不乱に仁王を彫り続けられる時代、作家が周りの声に左右されずに自分の作品を描き続けられる時代も終わった、と感じていたのかもしれません。ゾッとするような、眠れなくなってしまう怖い夢。「自分」は盲目の子どもを背負って歩いていますが、どこか不気味な彼を捨ててしまおうと、そのまま森へ向かいます。しかし子どもは、何もかも見透かしているような態度を取るのです。そうして自分は今からちょうど100年前、1人の盲人をこの森で殺したことを思い出します。小説が苦手という方は、まず漫画からチャレンジしてみてはいかがでしょうか。しかし、いくら待っても女は現れません。「騙されたのではなかろうか」と思い始めた頃、真っ白な百合が一輪、自分の前で開きます。自分は百合の花に接吻し、遠い空に暁の星が瞬いているのを見て「百年はもう来ていたんだな」と気づかされたのでした。唯一、初めから最後まで「自分の目で見た光景ではない」夢の話。今にも戦が始まりそうな時代、若い母親は3歳になる子どもを連れ、夫の無事を祈ってお百度参りを続けます。しかし、夫は浪士によって殺されていました。「こんな悲しい話を、夢の中で母から聞いた」という言葉で語られるこのエピソードは、読者を霧に包まれたような不確かな世界に閉じ込めます。現代(明治時代)に運慶が登場し、仁王像を彫っています。野次馬の男が「仁王を彫っているのではなく、木の中に埋まっている仁王を掘りだしているまでだ」というのを聞いた「自分」は、早速仁王を探して掘り起こそうとしますが見つかりません。「第九夜」は、戻らない男を待つ女の話を人づてに聞いています。「第十夜」は逆に、男を連れ出す女の話で、当事者の男が自ら語った話です。七日六晩無限に現れる豚も、繰り返される御百度参りと共通点があります。漫画家・近藤ようこさんによって描かれた本作は、原作に忠実なので、『夢十夜』の世界をより深く知ることができます。作品の幻想的な世界観と、近藤さんの絵がよくマッチしているのも魅力です。「自分」が床屋に行くと、鏡の中は別の世界と繋がっていて、女を連れた「庄太郎」、疲れた芸者、金魚売りなどが歩いていくのが見えます。「自分」は、死ぬ間際の女に「百年待っていてください」「きっと逢いに来ますから」と頼まれます。女の墓を掘り、日が落ちるのを数えて待っていると、真っ白な百合が伸びてきて、「自分」は100年がもう来ていたことを知ります。人間のリアルな心情を描いてきた夏目漱石作品にしては珍しく、幻想的で少しホラーな雰囲気が特徴の小説。一夜一夜の夢は独立していますが、「100年」「いくさ」「庄太郎」など、共通するキーワードもあり、深読みしたくなる物語になっています。夢のなかでも、特に不思議で不気味な話です。女にさらわれた庄太郎がふらりと帰ってきました。庄太郎は女と電車に乗って山に行き、数えきれないほどの「豚」と戦っていたと言うのです。運慶は平安末期から鎌倉初期に活動した仏師なので、当然ながら明治時代に仁王を彫っているはずがありません。しかし、ラストで「自分」は「運慶が今日まで生きている理由もほぼ解った」と語っています。その「理由」とは一体何でしょうか?また、「第一夜」は死にそうな女の頼みを聞く話、「第十夜」は女の頼みを聞かなかったばかりに死にそうになる話と、対照的な作りになっているのが分かるでしょう。