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父親のジョアンも元サッカー選手で、ドンジーニョという愛称で1試合で5回のヘディングシュートを決めた名プレイヤーでしたが(ペレですら、その記録を破れてません。)。ジッコはドンジーニョの息子の意味があるそうです。でも、ある試合で故障し、そのまま解雇され、現在では病院で清掃の仕事(トイレ掃除)をしていました。なので、母親のセレステは、ジッコがサッカーで生計を立てるのは反対でした。故障すると、他の仕事への代替できないからです。だから、学校で勉強をして、靴磨きで家計を助けてくれることを期待していたのですが、母親と行った、金持ちの家の清掃の仕事で、母親と離れたすきに、台所でつまみ食いをしました。誰か来たので、あわてて掃除に戻ります。その家の子供のジョゼと同じサッカーチームの仲間たちでした。彼らは、どのサッカー選手が好きかの話で盛り上がっていたのでした。ジョゼはビレ選手のファンのようです。ジッコもつい、口を挟んでしまったのです。「僕はペレだ」「ペレって誰だよ?」実は、ジッコも、父親ドンジージョが所属していたサッカークラブ、ヴァスコ・ザ・サンロレンソのGK(ゴールキーパー)ビレ選手のファンだったのですが、ミナス・ジェライスなまりのせいで、「BI」と発音できず、「PE」と発音してしまったのです。ジョゼたちに「ペレだってよ」と大笑いされたので、突っかかっていきますが、サッカーボールをぶつけられます。飛びかかろうとしたら、母親に止められました。それどころか、謝らされたのです。でも、ジッコは、抜け目ないです。町中で、サントスFCのスカウトが見に来るサッカー大会が開かれる新聞記事をジョゼが置いて行ったので、拾ってきたのです。いつものメンバーと試合に出ることになりました。ジッコと、女の子みたいなユーリ、眼鏡のチアゴ、太っちょのフォフィーニョです。ユーリがシーツで、ユニフォーム(チョッキ)を作ってきますが、おなかの出てるフォフィーニョは着れませんでした。そのまま出ることにします。どうやら、4対4の変則試合のようです。いつもは洋服の玉を蹴っているので空気の入ったボールは、より実力を発揮してくれました。ジッコ達は勝ち進みますがジョゼに「裸足軍団」(シューレス・ボーイズ)と揶揄され、観客も真似し始めます。決勝は明日になりました。対戦相手は、ジョゼ率いるキングスです。帰り道、裸足を馬鹿にされ、殴られたので、フォフィーニョが名案を思いつきます。列車でピーナツの袋を積み下ろしているので、それを盗んで売って、シューズを買おうというのです。言うまでもなく犯罪です。全員が賛成し、10kgはありそうな2袋盗んで、金網の下を潜り抜け、無事逃げ切りました。そして、ジーコの靴磨きをおまけにつけて、何とか4人分の中古シューズを変えるだけのお金が集まりました。でも、先ほど、ジョゼに殴られた目にできたパンダアザは消えません。母親が勘違いして、「先生に殴られたのね。明日、学校に抗議に行く」と乗り込みかねません。でも父ドンジーニョが言いました。「学校には俺が行く。おまえは仕事に行け」と。実はドンジーニョは、試合と喧嘩のどちらも目撃していたのです。盗みまでは見ていなかったようです。アドバイスとして「自分を信じろ」と言いました。決勝戦。ユーリがフォフィーニョ用に新しく縫い直してきました。中古のシューズは大人用だったらしく、ブカブカです。靴下をつめて、何とか走れるようにします。チアゴは眼鏡を馬鹿にされたので、外しています。なので、試合では実力を出せませんでした。残り時間は10分。既に6点差。負けは決定です。ジッコにボールが当たり、頭から倒れました。グラウンドが土や草っぱらでも頭は朦朧とします。「自分を信じろ」という父の言葉がよみがえります。いつものサッカーをすることにしました。シューズをぬぎ、相手のタックルを交わして股抜きし、単独ドリブルでまずは1点を返します。実況や観客も途端にシューレス(裸足軍団)を応援し出します。それは、洗練されたジョゼたちのヨーロピアン・サッカーではなく、ジッコのサッカーこそ、伝統のブラジリアン・サッカー。「フッチボウ・アルチ(芸術的サッカー)」だったからです。でも時間が足りませんでした。結果は6対5。試合こそ負けましたが、場内に「ペレ」コールが鳴り響きます。ジョゼがジッコを罵る時に使っていたから、賞賛の言葉として定着してしまったのです。試合こそ勝ったジョゼは、最後の10分間で台無しにされました。敗者のように惨めです。チアゴは言います。「もうペレでいいだろ?」 新聞記者に撮影され、、ドンジーニョにはサントスFCのスカウトである、デ・ブリートが、名刺を渡していました。でも、コートの外では、駅でピーナツを積み込んでいた男達が待っていました。映画「ペレ 伝説の誕生」のあらすじと結末をネタバレ解説。動画やキャスト紹介、レビューや感想も掲載。ストーリーのラストまで簡単解説します。記者会見が開かれ、レイナー監督は「今回のワールドカップでは、野蛮なジンガは使わない。」でも、ジッコは口を挟みます。「ジンガは悪くない。」すぐにマイクを取り返し、監督は会見を続けます。ジッコは、監督にたてついた選手として一躍、有名になりました。悪目立ちです。練習は、徹底的なゾーンディフェンスとフォーメーション・プレイなので、ひたすらパス回しです。ブラジルの攻撃的プレイは4-2-4だそうですが、他にも色んな数字が飛び出します。ジンガは変幻自在にコートを駆け回る為、ゾーンでは生かし切れません。練習では大人しくしてましたが、最終の代表選手を決める試合で、ジンガをしようとして、でも迷いもあり、そのせいで怪我をしてしまいます。膝を痛めてしまったのです。暗い気持ちで家に電話します。「僕はもうダメだ。母さん、ゴメンなさい。サッカーをして」ジッコは幼き日の母の教えを破ったことをまだ気にしてました。母セレステは言います。「家族全員で決めたことよ。早く怪我が治ることを祈ってるわ。」父ドンジージョに変わりました。「ジッコ、俺も試合でジンガをしようとしたことがある。でも、迷いで、相手選手のタックルに気づくのが送れ、取り返しのつかない怪我をし、引退した。お前のジンガには、俺にはない美しさがある。皆を勇気づける何かがある。お前自身を、ジンガを信じろ」ジッコに火がつきました。代表選手は22人。全員を連れて行かないと、故障者がでた時にギリギリです。怪我さえ治れば、ジッコにもまだチャンスはあります。白人の医者は諦めてしまいましたが、チームのマネージャー?は、ブラジル伝統のハーブが入った治療薬を飲ませます。そして、「俺は決勝戦でボールを持って帰りたいんだ。審判の奴ら、いつも持って帰るだろう。お前のジンガには期待してる。だから早く治せよ。」1958年のワールドカップはスウェーデンで開催されました。監督でも黒人に偏見があるレイナー監督は、黒人選手を嫌っていて、会見で左手の変形や、腰骨が歪んでいて、左右の足が違っているなど言いたい放題。恐らく、黒人選手が試合に出る時のフェオラ監督は、気分を害して選手を引き連れて、出て行きます。グループ4のブラジルは、6月8日に行われた第1試合のオーストリア戦は3-0で勝ち、マゾーラ(ジョゼ)が37分と85分に2点決めています。2戦目は6月11日のイングランド戦は0-0で引き分け。この時、マゾーラ他、白人の主力選手が3名も負傷し、黒人選手も出さざるを得なくなります。ジッコの怪我も歩ける程度に治りますが、チームは、そのジッコを出さなければ機能しない状態です。6月15日の3戦目は対ソ連。冒頭のシーンです。ジッコは、緊張のあまりトイレで吐き、口を拭かず、靴ひもすら結ばず、注意されるまで治せないほどガチガチです。白人の医者は「とにかく膝を守れ」と言いました。5万人の観客を見渡してしまいました。「おまえが客を見てどうする。客がお前を見るんだよ」と注意までされてしまいます。結局、その日は病み上がりということもあり、ジッコは何もできませんでしたが、ババが3分と77分に2点決め、2-0で勝ち進みます。準々決勝、ベスト8の戦いが始まります。6月19日、対ウェールズ戦です。ジッコはまだ調子が悪くありません。ふと医務室を見ると、マゾーラがいましたが、普通に歩けてました。治っているのに、隠しているようです。ジッコは言いました。「ジョゼ、治っているなら君が出ろよ。」マゾーラいやジョゼは言いました。「僕はダメだ。足は良くても心がな。僕はイタリア人になりたかった。でも、ここにきて思いしらされたよ。僕はブラジルなんだな。その点、君は違う。君のジンガなら、あの時のジンガなら、きっと勝てる」結局、ジッコが出ることになりました。とはいえ、監督の命令は絶対です。でも66分にペレはついに、ジンガを見せ、1点を決め、1-0で準決勝に勝ち進むのです。翌朝、ジッコは、ベッドに座り込んでいました。自分がプロに? そのプレッシャーは半端な物ではありませんでした。妹のマリアが着替えの手伝いに来ました。母セレステは父ドンジーニョに対し、「あの子は、このバウルの町からでたこともないのよ。それがいきなりサントスに行くなんて」「あいつの門出だ。見守ってやろう。」着替えたジッコに弟が抱きつきました。それぞれと抱擁し高級車に乗って旅立ちます。車が走りだすと、バウル市郊外のスラムは、あっという間に見えなくなりました。そして、着くなり、トレーニングをはじめることになります。でも、リフティングしながら走るジッコに対して、コーチは、「そんな※野蛮なプレーはいらないから、普通にドリブルしろ」と注意するのです。(※英語では、「モンキープレイ」と言ってました。)この頃、1950年の決勝戦の敗因は、ブラジリアン・サッカー独特のジンガのせいと言われて、徹底的なヨーロピアン・サッカーを選手に仕込もうとしていたのです。ジッコは悩みます。身体に染みついたブラジリアン・サッカーは、そう簡単に消えないのです。それでも、ジュニアに昇格します。夜な夜な、コートでシュート練習するジッコでしたが、なかなか、うまくいきません。それをデ・ブリートも窓から見ていました。そして、ついに、逃げ出したのです。駅のベンチで座っているジッコの横に、デ・ブリートは座ります。『ナシメント君、君はどうしてジンガをやらないんだ?』「だって、コーチが古臭いからやるなというから」『確かにジンガは古い。16世紀からの歴史がある。」「ヘッ、16世紀?」「興味ないかね?」「いえ、興味あります。教えてください。」(ジッコ(ペレ)の本名はエドソン・アランチス・ドゥ・ナシメントです。)デ・ブリートは語り出しました。『16世紀にポルトガルが黒人奴隷を連れてブラジルにやってきた。黒人奴隷は手を手錠で縛られ、足しか自由にできないから、足だけできる格闘技を編み出した。それがカポエラ(カポエイラ)、その基本技をジンガと言った。そして、その格闘技で白人を倒した人々は森の中へ帰って行った。そして、ブラジルが独立し、森の中の人々も出てきたが、その時にはジンガが禁止されていた。でも、公けにジンガを発揮できる場所を見つけた。それがサッカー。ジンガはブラジル人の誇りであり、魂の発露だ。ナシメント君、君が上を目指すなら、ジンガを見せるしかない。』「でも、コーチが」『明日の試合、楽しみにしているよ』列車が来ました。ジッコは乗らずにチームに引き返します。そして、試合で、迷っていました。ジンガを使うかどうか。その迷いが集中力を奪い、ボールが頭に当たり、倒れてしまいます。でも、それが周りの雑音を奪い、ゾーンに入り、心の迷いをなくしました。子どもの時のように、ジンガで相手チームを翻弄しながら、単独ドリブルでゴールに向かい、ゴールを決めました。当然、コーチから呼ばれます。選手交代で、退場でしょうか?「今のは何だ? もう一回やれ」その日だけで3得点、ハットトリックを決め、ジュニアからユースを飛び越えてプロチームに昇格しました。プロ選手のガリンシャがお祝いと言って、ジッコに「コーヒー買って来い」とパシリを頼みます。それすらもご褒美でした。ここから、ペレ本人が語りはじめます。ペレ本人は8年前の約束を父に言われるまで忘れていたそうです。画面は、ペレ本人の当時の記録映像が映し出されます。関係ないですが、ロシア語で、ペレは「再び」の意味があります。ペレストロイカは「再改革」の意味です。そのせいかペレは、1958年だけでなく、1962年と1970年も含め3度、ブラジルをワールドカップ優勝に導きました。この後、映画の1年後、1959年にペレは徴兵されてます。1961年に移籍騒動が起きますが、ブラジル政府は、「ペレは輸出対象外の国宝である」と宣言しています。1969年1月、コンゴでは民主共和国と共和国の間で紛争が起きてましたが、ペレ(サントスFC)が遠征してきたため、その間、休戦になっています。(ペレ休戦)。白人のスポーツであったサッカーで成功し、黒人に大きな勇気を与えたということで崇拝されていたからでした。同年11月19日に1000得点を決め、その日は「ペレの日」になっています。30歳ごろ(1971年?)、100mのタイムを測ると10秒でした(但し手押し)。1974年にサントスFCを引退します。翌年、アメリカでニューヨーク・コスモスと契約し、1977年のNASLチャンピオンシップを優勝に導きます。そして1977年10月1日に7万5千人の前で選手引退します。生涯ゴール、1375試合中、1278得点。各国で勲章が授与され、引退後も、スポーツと文化のために現在も社会貢献しているのです。サッカーは映画にするには難しいスポーツだそうですが、十分楽しめる映画でした。現在のブラジルと言えば、「キャプテン翼」に影響を与えたほど、サッカー王国のイメージですが、日本の「ドーハの悲劇」のように、不遇だった時期もありました。それは「マラカナンの悲劇」。1950年、ブラジルで開催されたワールドカップで、ブラジルVSウルグアイの試合が、間もなく行なわれると言うことで、ジッコ(後のペレ)は1人の客の靴磨きを終えると、仲間の誘いで、Tシャツに靴下や下着を詰め込んで、サッカーを始めます。狭いスラムの町なので町中がコートです。屋根や洗濯物でバウンドさせ、ハンモックで寝ている男の足の上に落ちれば当たらないようにボールを蹴って、ゲーム再会です。そして、ヘディングしようとジッコが空を見上げた時、後ろから走ってきていた弟が見えずぶつかり、水たまりに転んでしまうのです。それでゲーム終了となり、弟と2人で泥まみれになって帰ると、母親は怒っていました。靴磨きをやらずに遊んでいたことがバレたからです。もう一度、着替えで靴磨きをすることになりました。でも、今日は靴なんて磨いてる場合ではありません。ブラジル中がワールドカップに夢中なのです。皆、テレビかラジオにかじりついてます。なので、素直にジッコも靴磨きをせずに、屋根によじ登って、屋根をはがして、テレビの音声を聞いてました。聞こえるのはジッコだけなので、他の仲間たちは結果を知りたがります。リレーで伝えていきます。47分で先制され、66分で同点に追いつき。盛り返すブラジル・サポーターでしたが、79分ついに逆転されました。2対1です。会場は静まり返り、2人がその場で自殺し、別の2人はショック死、20人以上が失神。町中でも、すすり泣く声がブラジル中から聞こえたそうです。出場していた3人の黒人選手へのバッシングも凄まじかったそうです。それが「マラカナンの悲劇」です。2014年でもブラジル開催となり、こんどこそ地元優勝を狙いましたが、準決勝でドイツに前半で5点、最終的に1-7の歴史的大敗を喫し、そちらは「ミネイロンの惨劇」と呼ばれています。ジッコも泣いていましたが、父親も泣いていました。だから、ジッコは言いました。「いつか僕がブラジルをワールドカップで優勝させるから」。それに対し、父親は「それは楽しみだが、まずは母さんを泣かせるな」と諭します。ここからは映画「ペレ 伝説の誕生」のネタバレを含んでいます。あらすじの結末まで解説していますのでご注意ください。1958年6月15日19時、ブラジル対ソビエト戦で、白人アナウンサーが下品にガナリたててます。ブラジルチームを「自己流で、規律もなく、人種も混合」と紹介し、「故障明けのナシメント選手は17歳最年少での初出場で、今朝、緊張で吐きました」と伝えたのです。人種差別が酷い時代でした。しかし、その評価が4日後に180度変わる「サッカーの王様」伝説が始まるのです。4人は2手に別れて逃げ、チアゴが足をくじいたので、ジッコは川べりの横穴の中に逃げ込みました。雨も降り始め、視界も悪くなったので、追手の男たちは、ユーリやフォフィーニョが逃げた川の対岸まで追いかけていきます。チアゴは言います。「今日の試合、凄かった。ジッコ、いやペレなら、このスラムを這い出ることができるよ」ブラジルの雨はスコールです。川の水かさがマシ、土砂崩れが始まりました。急いで逃げるジッコでしたが、チアゴは足をくじいています。引っ張り出そうとしますが、埋もれてしまい、間に合いませんでした。ジッコは捕まってもいいと思って、助けを呼びます。「HELP」。(出演者はブラジルの人が多いですが、全体に英語の映画です。配役も、ペレに似ていて、 サッカーと英語ができる人が必要なので、キャスティングは難航したそうです。)追いかけていた男達が戻ってきてくれました。そして、3人の男達が掘り起こしたのですが、チアゴは天に召されていました。ジッコの泣き叫ぶ声に、ユーリとフォフィーニョも戻ってきたのです。結局、ピーナツ代を弁償したかどうかは分かりませんが、母親に全てを説明します。「僕がシューズを欲しがらなければ、ピーナツを盗んで、チアゴが溺れることもなかった。僕がサッカーをしたばかりに、チアゴが死んでしまった。もう、僕はサッカーしない。真面目に学校で勉強するよ。」母セレステは、黙って抱きしめました。それを見ていた父ドンジーニョは、母と2人きりになった時、黙って、スカウトの名刺を渡しました。セレステは、一瞥してから、机の引き出しにしまいました。翌日から、ジッコは学校が終わると父の仕事を手伝うことになりました。病院の清掃で、主にトイレ掃除。いやシビンの交換です。でも、チリトリのような形態で、斜めに傾いた入れ物で重いため、ジッコは、こぼしてしまいます。父ドンジーニョは、「こう持つんだ」と教えます。底を水平にするのではなく、上の部分が水平にもつようにするのです。ジッコは数日間、真面目に学校に行き、街中でユーリとフォフィーニョがサッカーをしていても、無視して、掃除をする日々でした。父親は見かねて、昼飯の時間、マンゴーの木から果実をもいでリフティングを始めました。赤い実なので熟しています。そして固い青い果実でシュートし、金属製の大きなゴミパケツにぶつけるのです。足の怪我もあって、リフティングはうまくいくのですが、シュートは、うまくいかないようです。1週間くらい、ジッコは我慢して見つめてましたが、ある日、父親のシュートがうまくいかず、落胆していた時に、素知らぬ顔でシュートを決めるのです。この日から親子でサッカーの練習を始めたのです。青い実のシュートはうまくいくのですが、リフティングはうまく行きません。それは、マンゴーは熟すと柔らかく、さらに、丸くなくて、洋ナシのような形をしているからです。でも、15歳になる頃には出来るようになっていました。それを母親が見かけます。家ではめったに見せない笑顔でボールを蹴る我が子を見て悟ります。そして、6年前、引き出しに入れたままだった名刺の電話番号に連絡するのです。翌日、サントスFCのスカウトマンであるデ・ブリートが、ジッコのマンゴー練習を見に来ました。いつものように赤い実で、見事なリフティングを見せ、青い実でシュートして見せ、さらに難易度の高い練習をしようとしていました。頭上の青い実めがけて、オーバーヘッドキックです。でも流石に高過ぎました。当たるのは当たりましたが、シュートにはなりませんでした。それでも父は「もっと力を抜いて自然にやるんだ」と言っています。家に帰ると、デ・ブリートが待っていました。「君をサントスFCに連れて行きたい」というのです。(実際は、デ・ブリートとの出会いは1954年頃で、映画では、その2年間は端折ったようです。デ・ブリードは父ドンジーニョとの知り合いでもあったようで、彼からも多くのことを学んでいます。また父との特訓以外に、小さなクラブやチームに参加し、サッカーの試合もしまくっていたようです。)レイナー監督はジンガを認めません。ひたすら、フォーメーションの訓練です。準決勝、ベスト4は対ドイツ。1点でも得点されたら、徹底的にマークされ、へたをすれば潰されかねません。それでもペレは52分、64分、75分に3点、ハットトリックを決め、5-3で勝ち、ついに決勝進出です。ジッコはジョゼに相談します。「僕だけでは、これ以上は無理だ」「君1人ならな。今度は皆にジンガを信じさせなければいけない。俺も手伝うよ。」 決勝戦の朝、暗い顔で食事をする、チームメイトに向かってジッコは言いました。「今から灯台までリフティングだ。」皆、何をバカなことを呆れ顔です。ジッコがリフティングの後、ジョゼにパスをしました。見事受け、次々とパスをしていきます。落とすわけにはいきません。他のチームメイトもやる気を出しました。ホテルの中、厨房の中、子どもの頃、路地裏でやったサッカーのように、落とすわけにはいきません。でもケーキに突っ込みました。でも、審判が見逃せば、OKです。クリームを舐め取り、試合続行です。新聞を読みながら、コーヒーを飲んでる黒人の砂糖壺をこぼしてしまいました。ジッコはすみませんと砂糖壺を片付けて、リフティングを続けます。その男性が振り返ると、ペレ本人でした。まぶしそうに17歳のジッコを見つめます。それだけではありません。ホテルの中を元気に走り回り、皆でリフティングする様子をフィオレ監督は見つめてました。結局、噴水に落ちたジッコがおぼれたせいで、リフティングはおしまいになりました。笑いながら控室に帰ってくると、フィオレ監督が待っていました。急に静まり返ります。「我々は、このままでは勝てない。昨日までのやり方ではな。ジンガは悪くない。ナシメントが言ったことだが我々の戦いをして、勝てるかは分からない。それでも、敵の真似をするよりはマシだ。やれることをやろう。何をしている、さっさと練習に行くぞ。」皆に笑顔が戻ります。チームは一丸になりました。決勝戦は対スウェーデン。4分で1点先制されますが、マラカナンの悲劇のジンクスは破られます。キーパー以外の10人全員がジンガをはじめたため、スウェーデンの昨日までに分析して対策していた戦術が、一切無効になりました。ババは9分、32分に2点とって逆転し、スウェーデン国王夫妻を含め、観客は落胆しますが、それ以降、ブラジルチームのジンガによる「ジョゴ・ボニート(美しきサッカー)」に会場だけでなく、世界中が魅了されます。当初は、人種差別で、どうしようもない実況をしていた各国のアナウンサーまで、肯定的にジンガを芸術的と褒めたたえています。横では、タイプライターがカタカタ打ち込まれています。セレステもラジオで聞き始めます。55分にジョゴがゴールした時、思わず、窓を開けて「ペレー」と叫びます。リビングでは、ドンジージョがマリアを抱いて、他の皆と共に、サンバのリズムで踊っています。サガロが68分に1点、そして90分。試合終了直前に、ペレが1点決め、5-2でブラジルはワールドカップを優勝したのです。会場では「ペレ」コールが鳴り響いてました。1人、レイナー監督だけが蚊帳の外でした。例のマネージャーが審判からボールを奪って逃げています。その頃、ブラジルでは国中で大騒ぎ、意味もなくトラックで走ったり、両親は抱き合い、キスをしていました。「ジンガージンガー♪」という歌が流れだします。地元のバウルでも、ジッコの活躍は知られていました。でも、母親のセレステだけは聞きません。ジッコがいつ怪我するか分からないからです。実は、この時代、レッドカードやイエローカードがなかったからです。だからラフプレーは当たり前で、父ドンジーニョのように怪我で選手生命が終わる名プレイヤーも多かったのです。そして、レッドカードやイエローカードが出来るのは、1966年のこと。きっかけは、ペレでした。ワールドカップ予選でペレへのファールが集中し、負傷欠場し、その年のブラジルはワールドカップ予選で敗退ということが起こってしまったために出来たのです。でも、映画は、その9年前の1957年です。年末のある日、ナシナント家にガスコンロテーブルが届きました。セレステは当然、頼んでないので、断ろうとしますが、配達人の陰からジッコが出てきました。素直に息子からのプレゼントを喜びます。でも、スラムにはガスがまだ引かれてませんでした。「テーブルとして使うからいいのよ」父ドンジーニョにはラジオをプレゼントしました。「これで、明日の代表選手の選抜が決まるのを聞けるな」(熱帯なので、季節感は分かりませんが、恐らくクリスマスプレゼントだったのでしょう。)そう、明日は1958年度のワールドカップに出場するブラジル代表選手が決まるのです。母セレステは言います。「ジッコはまだ16歳よ。選ばれるわけないじゃない」父ドンジージョも言いました。「そうだな。わざわざガッカリするために聞くこともないか」次の日、ドンジージョとジッコと弟は庭でラジオを聞いてました。ジッコは祈っています。ジッコも一人で聞くのが怖かったのかもしれません。21人目の選手は19歳のマゾーラでした。でも、アナウンサーは続けます。「最年少は19歳のマゾーラかと思われましたが、最後の代表選手は17歳のナシメントです。」父と弟は声を上げて喜びました。洗濯を干していた母セレステは「何を騒いでいるの?」と怒りますが、ジッコはラジオを抱えて泣いてました。晴れて22人目の代表選手に選ばれたのです。その翌日、ジッコは久しぶりにユーリに会いました。でもフォフィーニョは刑務所にいました。ユーリと一緒に盗みに入り、ユーリを逃がすために捕まったそうです。「これがこの町の現実だ。でも、刑務所でもラジオは聞ける。お前のジンガで、アイツを勇気づけてくれ。」年を明けて1958年。22人の代表選手を祝う祝賀パーティーが開かれ、ジッコも招待されてました。黒人選手が固まっていました。ジジとガリンシャもいます。そして、「アイツに勝てよ」と19歳のマゾーラの方を指さしました。ジッコは言います。「アイツはジョゼだ。」8年前、ジッコをペレと呼びだし、6対5で勝った、あのジョゼです。「イタリアかぶれで、マゾーラと名乗ってるんだ。」