ドグラ・マグラにおいても、読者の私=作中の私とメタ構造で考えるとなるほど納得、腑に落ちるところが多いのである。 今この文章を読んでいるあなた方も終いには、「ナアンダ、ソンナコトカ」と、拍子抜けして咳一咳してホッと胸を撫で下ろすはずだから安心してくれ給え。 ドグラ・マグラ ... 一度の読了で、作品の真相、内容を理解することは困難である(上記の「ドグラ・マグラの作中のドグラ・マグラ解説シーン」でも「内容が複雑なため、読者は最低二度以上の再読を余儀なくされる」と語られている)。
文庫「ドグラ・マグラ(下)」夢野 久作のあらすじ、最新情報をkadokawa公式サイトより。昭和十年一月、書き下ろし自費出版。狂人の書いた推理小説という異常な状況設定の中に著者の思想、知識を集大成し、”日本一幻魔怪奇の本格探偵小説”とうたわれた、歴史的一大奇書。 読めば精神に異常をきたすといった強烈なキャッチコピーが出るほどの小説ですが、実際のところはどうなのでしょう。正木教授にある絵巻物を見せられます。その絵巻物には、病室で会った少女にそっくりの女が描かれています。それでも冒頭から始まる「胎児よ、胎児よ、何故躍る~」怪しいフレーズに興味を覚える方は多いと思います。その若林教授に記憶を取り戻すため、研究所へ連れて行かれます。記憶を取り戻す事で隣の病室の少女も助かり、若林教授の研究も完成するとの事です。自分は誰なのか犯人なのか、はたまたタイムスリップしたのか、意識が混濁したまま病室に戻ります。そしてふと男は気がつくと病室で寝ており、埃にまみれた新聞を発見します。記事には正木医師自ら命を絶つと書かれており、その日付は正木と部屋で話をしていた時に見たカレンダーの日付の翌日でした。すると何故か亡くなったはずの正木教授が出てきて、若林教授があなたを呉一郎に仕立てるためにその本を読ませた、というのです。しばらくして若林鏡太郎という法医学の教授が現れます。若林教授は、今まで研究に当っていたが自ら命を絶った正木敬之教授の後任だと言います。一応主人公は呉一郎という青年だったというのが一般的な解釈ですが、それも作中では確定していません。まずキャッチコピーである「精神に異常をきたす」ということは起こりません。精神に異常をきたすというキャッチコピーに惹かれるような謎好きの方はぜひ読んで、色々な解釈を考えてみてください。その内容は呉一郎という主人公がブーンという時計の音で目覚める話で、まるで今の自分を見ているような気分になり、意識が混濁します。この作品は謎を考えることが楽しい人にはおすすめできると言えます。ただ難解過ぎる内容ですので要約することも難しいですが、今回は一般的な解釈と共に、簡単なあらすじをご紹介します。研究所に着いたら記憶を取り戻すための資料だとして、色々な書物を読まされますが、その1つにドグラ・マグラがありました。そして男の脳にはブーンという時計の音が聞こえており、それはいつしか読んだドグラ・マグラの本のラストシーンと同じだったのです。そして男が置かれている異様な状況にどんどん引き込まれていくと、圧倒的な物語の迫力から抜け出せなくなるかもしれません。日本探偵小説三大奇書に数えられるのが、夢野久作(ゆめのきゅうさく)のドグラ・マグラです。その研究が、実はある凶悪で不思議な事件に利用されたのだと教授は言います。この巻物には不思議な力があり、まずはどうなるか実験台にするために、呉一郎とその許嫁に見せたのだと、事件の犯人は自分なのだと正木教授は言います。精神に異常は起こりませんが内容は難解ですし、結局真相は分からないまま終わるので、物語の終わりはハッキリして欲しいという方には向かない小説でしょう。ある日ブーンという時計の音で男は目が覚めますが、自分が誰だかわからなくなっています。隣からは「なぜ私を手に掛けたの?」というような少女の声がします。ある裕福な家に生まれた青年が結婚前夜に花嫁を手に掛け、さらにその遺体をモデルにして絵を書いていたという奇異な出来事があり、その事件の唯一の生き残りであるのが、この記憶喪失の男なのです。 夢野久作のドグラ・マグラは読めば精神に異常をきたすという、強烈なキャッチコピーがある難解な小説です。簡単なあらすじをご紹介します。物語は記憶喪失の男が目覚めるシーンから始まり、どんどん不気味な雰囲気を醸し出していきます。 「……たとい理屈がどうなっていようとも自分自身を呉一郎と思う事は絶対に出来ない……」それに、私が仮に『精神異常から回復していない呉一郎』あるいは『呉一郎の心理遺伝を受け継いだ胎児』であるとするならば、幾つかの台詞に矛盾が生じる。今この文章を読んでいるあなた方も終いには、「ナアンダ、ソンナコトカ」と、拍子抜けして咳一咳してホッと胸を撫で下ろすはずだから安心してくれ給え。あるいは、精神疾患の遺伝に関する研究や、遺伝子と犯罪率や、或いは進化心理学、自由意志に関する実験、云々、現代科学の進展により『心理遺伝』が必ずしも大きく的を外したものではないとも云えるのであるが。私が微塵たりとも記憶を取り戻せず、また記憶の蘇る兆しが一向に見られないのは、私がこの小説セカイに夢遊してきた読者だからと考えると至極当然となる。つまり、私に「自己投影」している私は姿形は呉一郎とそっくりなのであるが、そのセカイでの記憶がもともと存在しないのだから思い出せるはずもなし。分かりやすく説明すると、『本作主人公の《私》が、ドグラ・マグラを今この瞬間に読んでいる読者である《私》』であると仮定するならば、本作の謎は比較的容易く解けるのではないかと思われる。あるいは「私=胎児」と見るならば、生まれる前の胎児に記憶があるはずなかろうという帰結に至る。ドグラ・マグラのセカイにやってきた読者である私は記憶のないところから始まり、その読者に対して正木博士と若林博士が奇怪なトリックを用いて私に一杯食わせようとしているのであれば――。アハハハハハハハハハハハハ………………アハハハハハハハハハハハハ………………と、なると、小説のキャラというのは皆ひとつの母体、創作者の意識無意識の記憶から産み出されたわけで、あのキャラは著者が現実で失恋したあの人をモデルにしたのさ、とか、あのキャラは著者の心に抑圧された劣等感の塊から誕生したのさ、とか。たしかに、地球創世の原始生物~人類の記憶すべてを細胞のひとつひとつが記憶していて、その「前世の運命」が心理遺伝によって受け継がれ発作が起こるというのは、いかにもオカルトすぎて興醒めするところがある。正木博士の言うところの「私と少女が結婚しなければならぬ」という理論はよく理解らないのだが、ただパラドックス的に「呉一郎とモヨ子が結婚しないのであれば胎児は産まれない」というものであるとしたら。「大正十五年の十月十九日の開放治療上の過去の記憶である《呉一郎》を幻視している十月二十日に正木博士と対面している《呉一郎》を幻覚している十一月二十日の若林博士の手で実験させられている《呉一郎》による夢遊状態を幾ヶ月も繰り返している精神病患者である《呉一郎》から受け継がれた心理遺伝による悪夢を見ている《胎児》」こそが私であると推測されるのだが、これではあまりにも捻くれ過ぎている。「ウンウン。迷う筈だよ。……君は昔から物の本に載っている、有名な離魂病というのに罹かかっているのだからね……」文芸部の漫才コンビ。創作理念の違いから衝突することも多いが、互いに相手のことを認めている良きライバル関係である。つまり小説の人物は、創作者の心理遺伝から生まれる道理ではないのか。「……いいかい……この事件で差当り一番不思議に思えるところは、君とソックリの人間がモウ一人居る事であろう。そのモウ一人の君自身のお蔭で、スッカリ事件がコグラカッてしまっている訳だろう。しかも、それは君の離魂病のせいだっていう事をツイ今しがた、説明して聞かせたばかりのところじゃないか」六号室の少女である《呉モヨ子》と私が出会っても、何も記憶が作用されなかったのは『現実世界』での邂逅ではなかったからだ。結論から述べると、否、結論は元から存在せぬのだが、少なくとも私のなかでの私に関する結論については朧げながらも答えが見えたので、それを先に示しておきたい。読み終わった直後はあれほど明瞭だったInspirationが頭のなかに霧がかかったように霞んでゆき、私はまた迷宮に放り出される。また、無理やりメタフィクションにしなくとも、「創作者=神」という構造を持ち出せば、このメタ構造は現実にさえ当てはまる。アハハハハハ…………アハアハアハアハ…………アハハハハハハハハハハハハ……………。「主人公の私」と「読者の私」がイコールで結ばれる。決して珍しい話でもなく、ほら、例えば二人称小説なんて典型的な読者巻き込み型の文体であるし、あるいはドイツ児童文学のファンタージエン国の話なんかもメタフィクションとしては有名である。「双生児ふたごよりもモット密接な関係を持っているのだ。……無論他人の空似でもない」エッ……訳が理解らないって……ウーン……ウーン、ここから先に進んでもらえないのなら困った、困った。もちろん、書かれた当時まだ1935年(昭和10年)と、DNAがどんな役割を果たしているかもよく分かっていなかった時代なので、目を瞑るとしても。小説作中の人物は、云うまでもなく創作者たる筆者から生み出されるものである。産み出されるものである。創作者のなかにある胎児が目覚めて成長した結果、小説セカイの人間へとなるわけである。どうして気が付かなかったのだ、ドグラ・マグラは矢張り純粋なミステリーだったのだ。三大奇書やら「読むと気が狂う」やら言われとうけど、ふっつーに面白いエンターテイメント・ミステリーやったで!!なにせ若林も正木も呉一郎の母と関係しており、ふたりとも本当に父親かも知れぬのだから。呉一郎を誰が罠に嵌めたか――ちうのはもはやこの期に及んではどうでも良い。この『本人』とは、創作者を指すのではないか。《私》は読者であるのだから、たとえ魂だけの存在であっても作中の人物に憑依することは叶わない。この正木博士の台詞こそが非常にメタフィクション的であり、離遊病が読書行為そのものであることを示唆しているように思えて仕方がない。若林博士が《私》を呉一郎と認めさせようと企むのに対し、正木博士は《私》と呉一郎との間にある等号を打ち壊そうと努力している。私が呉一郎であるとするならば話は簡単なのだが、そうでないから難しいのであり、そうでないことに意味があるのだとすれば…………。サテサテ、考察記事を書いていて自分でも何が何やら分からなくなってしまった。ドグラ・マグラにおいても、読者の私=作中の私とメタ構造で考えるとなるほど納得、腑に落ちるところが多いのである。即ち、悪夢から醒め、現実に生を受けた胎児が実の母と握手を交わす。すると『自分が何者だったのか』が瞬く間にひらめくのは当然のことである。この台詞のあとに離魂病の話が出てくるからややこしくなるが、私が《将来呉一郎の子となる魂》であるとするならば、ある意味で双子よりも密接な関係となると云えなくもない。本作の根幹たる思想「心理遺伝」について、これが結構な似非科学っぽいので読むのが嫌になったという人もいるだろうと思う。(前略)君の方ではあの少女に恋なぞされるのは迷惑かも知れないが、まあ任せ給え。君があの少女を恋しているいないに拘わらず運命に任せ給え。そうしてその運命の結論をつけるべく、あらわれて来た君の頭の痛みと、あの少女とがドンナ関係に於て結ばれているかという話を聞き給え……少々取り合せが変テコだが。……そいつを聞いて行くうちには、法律と道徳のドッチから見ても、君とあの少女とは、或る運命の一直線上に向い合って立っていることがわかるからね。この病院を出ると同時に結婚しなければならぬ事が、一切の矛盾や不可思議が解けるにつれて、逐一判明して来るからね(後略)それにしても、正木博士は「いまにわかる、いまにわかる」と言いながら、ちっともわかるようなご説明をしてくださらない。《たとえ》を《仮令》と漢字で記載するなど、もしかすると夢野久作にも影響を受けていそうな雰囲気が感じ取れる。ドッペルゲンガーを題材としたホラー小説で《私と、もうひとりの私》を軸に物語が進む。最近読んだ小説のなかでは面白かった。呉一郎が、精神鑑定に立ち会った若林博士と正木博士両名を「……知っています。僕のお父さんです」と言って正木を笑わせたのも、相当に皮肉的な伏線だった。この正木博士の言う『或る人間』とは呉モヨ子のことである。そして『或る処』とは、母体から産み出された現実世界のことを指す。と仮定しよう。そもそも、私=胎児説では、胎児に呉一郎の心理遺伝が継がれなければならないのだが、心理遺伝に血筋が関係する以上、絶滅寸前にある呉家の跡継ぎ足り得るのは生き残った六号室の美少女、呉モヨ子の赤子以外にはあり得ぬはずではないか。序盤の、若林博士のこの台詞、そのまさしく『胎児の夢』と題する恐怖映画の主人公こそが《私》ではないのか…?話をややこしくしているのは、後半部分で「私=呉一郎」の図式がはっきりしようとしたところで、もうひとりの呉一郎の幻影が現れ、結局のところ呉一郎と私が同一人物なのか別人なのかがこんがらがってはぐらかされてしまう処だと思う。正木博士の発した「離魂病」なる言葉を今一度考えなおしてみると、この奇妙な単語はどうやら読書中に我々がしている体験と非常によく似ていることが察せられることと思う。