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「国家」プラトン基本情報初版 bc375年前後出版社 岩波書店(日本)難易度 ★★☆☆☆オススメ度★★★★★ページ数 上巻456ページ、下巻675ページ所要時間 12時間30分著者プラトン(bc427 - bc347)古代ギリシャの プラトン(b.c.427-b.c.347) Ⅲ 理想国家のあり方と条件、とくに哲学の役割について C 哲人統治者のための知的教育 4.洞窟の比喩 プラトン『国家』岩波文庫(下巻):第七巻~第九巻[b.c.375?]

プラトン『国家』篇における数学の対象 浅 野 幸 治 数学の哲学でプラトン主義と言えば、数学の関わる対象が人間の思考とは独立に 客観的に存在し、数学的知識とは数学の対象についての真理を発見することにある とする見方である。 -プラトン『国家』におけるトラシュマコス説-西尾 浩二 KqjiNISHIO 1. プラトンのイデアについて 小 坂 国 継 ソクラテス以前の哲学者たちは,こぞって「自然」について探究した.アリストテレスは彼らを「自 然学者たち」(ピュシコイΦυσικοί)と呼んでいる(『形而上学』986b14).彼らは世界が何でできてい プラトン全集〈11〉 クレイトポン・ 国家.pdf download 166.1M プラトン全集〈12〉ティマイオス・クリティアス.pdf download 38 プラトンf'国家jにおける正義の擁護 論理的関係を導出することによってSacllS問題を解こうとする立場について。 Jp-Jvについては,たとえばDemosやWeinga.rtnerなどが論じたが,4 巻後半の全体の文脈のなかでその論証の道筋を明らかにしたのは,朴氏の論考

『国家』第一巻でトラシュマコスは、正義についていくつかの一見矛盾する見 解を披露する。問題となるのは次の三つの言明である。((1)~(3)の番号付けは最 初にテクストに登場する順。) 古代ギリシアでは、音楽は人を動かす力があると考えられていたらしい。例えば、神話『オルフェウス』では、音楽のもつ不思議な力が描かれている。■あの世からの報告者によると、人は死ぬと次の人生を選べるらしい。前世で数々の苦労が身に沁みて、名を求める野心も枯れていたオデュッセウスは、誰からも顧みられなかった、平穏な一般市民の人生を選んだという。やはり人は「理性と勇気で、醜い欲望や感情を制御する」という秩序を受け入れて生きるべきなのだ。ちなみに、京セラ創立者で日本を代表する経営者である稲森和夫は、その著書「生き方」の中で、こう述べている。■また、彼らには私有財産は持たせるべきでない。なぜなら、支配層はそれにより互いに家族も同然となり、一人の人間のように利害を共有するからだ。しかし、より上位の事柄に自分の関心を向けることで、嫉妬や悪意から逃れることが出来る。例えば、自分はどう生きたいのか、そのために為すべきことは何なのかを冷静に考え始めることができれば、それより下位の事柄はどうでもよくなってくる。ソクラテスが本書の中で「理屈を振り回すペテン師」として扱われているのは、私のような素人からするとまさにそのとおりなので、非常に面白い。そして、ソクラテスに煙に巻かれないように必死に抵抗する周囲の人々とのやりとりも面白い。これは「論理的に正しいこと」と「現実世界を説明すること」が乖離していることに起因する。ソクラテスの「論理遊び」を省略すれば、本書は1/3くらいになるはず。昔、リュディアの羊飼いギュゲスが不思議な指輪を見付けた。その指輪の玉受けを回すと自分が透明人間になれることを知ると、まず王妃と交わり、その後、王を殺して王権を我が物にした。大衆は自由に慣れ、ちょっとした抑圧でも我慢できなくなる。声の大きい支配者層が、優秀な富裕層の富を取り上げ、無知な大衆層に再分配して機嫌を取る。「自分は<上>の人間でありたい」という人が、自己を律するための「健全な上流意識」として、プラトンの言葉は噛みしめられるべきだろう。■理想の国家では無益な権力闘争があってはならない。そのためには「記憶力と物分かりが良く、優雅であり、常に真実を追い求め、知恵と正義と勇気と節制を愛する」哲学者が支配者になるしか方法はない。何故なら、思慮深い生活を送り、政治的支配を見下し、結果として権力闘争を起こさずにいられるのは哲学者しかいないからだ。【参考】「欧米にはなぜ寝たきり老人がいないのか」https://yomidr.yomiuri.co.jp/article/20120620-OYTEW61295/「ソクラテス、確かにあなたに反論できる者は誰もいないでしょう。けれども、あなたがいま言われるようなことを耳にするたびにいつも、聞く者たちのほうは何となくこういう感じを受けるのです。つまり、自分たちは問答をとりかわすことに不馴れであるために、ひとつひとつ質問されるたびに、議論の力によって少しずつわきへ 逸らされて行って、議論の終りになると、その〈少しずつ〉が寄り集まって大きな失敗となり、最初の立場と正反対のことを言っているのに気付かされるのです。思慮(知)と徳に縁のない者たち、にぎやかな宴やそれに類する享楽に常に馴染んでいる者たち、彼らはどうやら、〈下〉へと運ばれてはまたふたたび〈中〉のところまで運ばれるというようにして、生涯を通じてそのあたりを彷徨い続けるもののようだ。これはなかなか危険な思想だ。「優れた」と「劣った」をどう定義するのか、人が子孫を為す権利を誰かが制限する権利があるのかなど、根が深い。私は、人間の心は多重構造をしていて、同心円状にいくつかの層をなしているものと考えています。すなわち外側から、人が正しく育てられる場合には、気品ある優美さをもたらしてその人を気品ある人間に形づくり、そうでない場合には反対の人間にするのだ。■詩人や作家も画家と同一で低俗だ。ホメロスにしても、そのテーマである「徳」に似せた”影像”を描いているだけであって、真実には触れていない。作家も画家も、大衆が喜ぶ「嬉しい」とか「悲しい」という安っぽい感情は好んで描写するが、「思慮深く、平静なさま」は本人も大衆も理解できないので描写できない。何とも身も蓋もないが、ソクラテス(の名を借りたプラトン)は正しいことを言っている。問題は「素養と教育を与えられた少数の人」が、本当の意味で正しい美意識や倫理観、献身性等を持っているかどうかだ。「国家体制のイデア」はどこにあるのだろうか。イギリスの元首相チャーチルの言うとおり、人類はまだ民主主義より「マシ」な政体を発見できていない。■個人の正義または不正の問題を、国家のそれと比定することで明らかにする。■第1巻で示した「『正しくあること』に何らかの利益があるか否かを問題にしなければならない」の答えは以下のとおりである。・哲学者は洞窟の外の真実を知った存在。その哲学者が洞窟に戻り、奴隷と話をしても、奴隷にはそれが理解できない。民主主義には多くの構造的欠陥がある。民主政府自体は、たいして能力も徳も高くない民衆が選んだ人物が運営するのであって、寡占政府より立派でも効率が良いわけでもない。プラトンが志向する「国家管理制哲人政治」はエリート主義的すぎ、寡頭制はお金にまみれ、独裁制は属人に頼り過ぎて長続きせず、共産主義は歴史的に上手くいかないことが既に証明済み。どれも「美しくない」のである。人は善い生と悪い生とを識別し、自分の力の及ぶ範囲でつねにどんな場合でも、より善いほうの生を選ぶべきだ。なぜならば、人間はそのようにしてこそ、最も幸福になれるのだから。「才徳兼備」を目指す部下に紹介している「骨太の教養本100冊」を、順次web上にも公開しています。ナチスドイツの最高指導者であったヒトラーは優生学の信奉者であり「アーリア民族を世界で最優秀な民族にするため」に、「支障となるユダヤ人」の絶滅を企てた。また、長身・金髪碧眼の結婚適齢期の男女を集めて強制的に結婚させ、「ドイツ民族の品種改良」を試みたほか、精神的または肉体的に「不適格」と判断された数十万の人々に対して強制断種を行った。■寝椅子を例とすれば、神は寝椅子のイデアを作り、職人は寝椅子の実物を作り、画家は寝椅子を真似る(描写する)。真似はイデアから最も遠い。■よって、理想の国家では、優れた男性と優れた女性が互いを共有し(=乱婚し)、生まれた子供は社会全体の共有物として大切に育て上げられ、さらに優れた支配層を形成していくべきだ。しかし、プラトンが本書で繰り返すように、理想的であることと、それが実現可能であるかどうかは、必ずしも両立しなくて良い。歴史上、プラトンの手法で平和を保った国は一切存在しない(或いは伝わっていない)が、2400年前の人類が、このような思考実験をしていたことは非常に面白い。・この「可視界で知覚できる実在とは無関係に、可知界で思惟によって認識できる理想像」のことを、プラトンは「イデア」と呼んだ。ここにプラトンの示すユートピアがある。いくつかある本書の「読みどころ」の一つと言える。哲学者(自分は<上>だと思っている人々)から見た大衆観なので、若干の中二病っぽさというか、選民意識が強すぎるというか、そんな感はある。・同様に、あるイデアは善のイデアによって照らされて初めて、人間はその存在を思惟できる。名誉支配者の一部が落ちぶれる。勝利と名誉より、より確実に快楽をもたらす金儲けと蓄財に走るようになる。・人間の認識は、Aの「実在に関する知覚」から始まり、段階的にBの「善のイデアに関する思惟」に到達する。自分の関心の対象を常に上位に持ち続ける、というのは処世術の一つと言えるであろう。ここでは国家の守護神たる者の見極め方が議論されているが、常に試され、評価され、選抜されているという意味では、大きな組織のビジネスパーソンと同じだろう。とにかく分量の多い本であるが、言っていることはシンプルなので、どんどん読み進められる。夏休みなど、一定の時間がある時にオススメの1冊と言える。何となく分かったような、分からないような議論である。要は、全体とある一部が分かれば、残りの部分は「全体マイナスある一部」で把握できるということ。現代でも、映画や小説は「娯楽」、哲学や倫理は「学問」という認識が一般的であるが、プラトンの理屈で考えると理解しやすい。映画や小説では、深い思考を表現することが出来ないのだ。民主主義は最悪の政治形態らしい。ただし、これまでに試されたすべての形態を別にすればの話であるが。現在では倫理的に優生学的思想は許されない傾向にあるが、社会福祉として、たとえは判断能力の無い者に対する結婚制限、断種、隔離等は議論されてしかるべきであろう。人類が何千年も前から考えているテーマであるという点で、興味深い。■人の序列は、①知を愛する者→②名誉を愛する者→③利得を愛する者である。何故なら、より下位の人間は、それより上位の快楽(真実を知る、勝利する、金儲けする)を経験することも、思いを馳せることも、表現することもできないからだ。■哲学者は「善のイデア」を直接知る存在であるが、そのままでは国家は良くならない。下界の蒙昧な大衆を率いてもらう必要がある。だからこそ、国家が哲学者を最初から支配者とするつもりで育て、その義務を負わせなければならない。哲学の基本中の基本を学びたい人、自分の生き方を確立したい人、イデア論に関心のある人東洋でも紀元前3世紀頃に荀子が性悪説を唱えている。正義を考えるうえでは、普遍的なテーマということだろう。優秀な貧乏人が恨みを抱き、支配層を打倒し、一般大衆に権力を分け与える。■文芸と音楽による教育は、美しいものを褒めたたえることで、気品と優美さのある人格を形成するのだから、決定的に重要である。また、体と魂の健全さを維持するという点で、体育と医術も重要である。なお、本書は理想の国家を語ることで、理想の個人を考察する体裁を取っているが、この議論では逆になっている。■理想の国家では、国民が全く同一の苦楽を共にすることで、平和が保たれる。それは、一人の人間が手を負傷した際、体全体がその負傷と向き合うことに似ている。自分と他人という区別があるから、相互の利害が対立し、国は分裂するのだ。そして「自由が抑圧されそう」になると、国家にとって必要な(と与党が思う)ものまで含めて、とにかく反対しまくる。日本で言えば、マイナンバーしかり、秘密保護法しかり、共謀罪しかり、「プライバシー侵害に繋がる!」と野党は反対しまくった。しかしまあ、人間というのは2400年経っても、やっていることや考えることは一緒である。なんともほっこりする書き出しだ。新妻エウリュディケが蛇に噛まれて命を落とし、嘆き悲しむオルフェウスは冥界の王のもとに赴き、もう一度だけ妻に会わせてほしいと竪琴を奏でながら吟じた。オルフェウスの奏でる音楽は、人間のみならず動物や、車輪まで動かす力があり、魅了された冥王は、オルフェウスの嘆願を受け入れた。そのためには、仕事以外の分野で、自分の人生を充実させなければならない。仕事に埋没していては、その埋没している自分を客観視することはできない。もちろん、人生を充実させる手段は、趣味、読書、家族、友人関係など、人それぞれである。途中でホメロスの「イリアス」や「オデュッセイア」からの多数の引用があるが、両書とも読んでおく必要はない。単に、国家の守護者たるものが読むのに相応しくない部分がある、と言いたいだけだ。1904年、ダーウィンの従兄弟であるイギリスのF・ゴルトンは「優生学(eugenics)」という学問を提唱し、「人間の優良な血統を増やすことを研究する科学」と定義した。そして、プラトンのこの記述は、歴史上、初めて優生学の思想が現れたものとして知られている。本書は「正義とは何か」という議論からはじまり、「人間とは生来的に善なのか」「善であるという評判さえあれば、中身は悪でもいいのではないか」といった議論が進む。西洋哲学の源流であるプラトンの代表作で、最重要哲学書の一つ。副題は「正義について」。人はどう生きるべきかを、対話形式で平易に語る。かの「イデア論」も、本書の中で展開される。・正しくあろうとする人は、体の健康や快楽を目的とせず、自身の魂や人格を完成させる学問に専念する。財産も秩序を乱さない範囲で築き、名誉も自分を一層優れた人間にする場合のみ受け入れる。「西洋哲学の源流」というから、どれほど高尚で難解なのかと思って読むと、意外と言葉遣いは平易で、すんなり頭に入ってくる(もちろん哲学者にとっては深淵で難解なのだろうが)。正義とは「理性と勇気が、醜い欲望を制御する」という秩序を受け入れることである。定められた生活の課程に従って生きて行くことのできない者は、当人自身のためにも国のためにも役に立たない者とみなして、治療を施してやる必要はないと考えたのである。・不正をすることによって財産や権力は手に入るかもしれないが、代わりに悪い人間になる。不正がバレた場合には更生の機会が与えられるが、バレなかった場合はさらに悪い人間になる。■哲学者に学ばせるべき学問では、感覚で把握できる事物ではなく、知性と思惟でしか到達できない真理を扱うべきだ。具体的には数学・幾何・天文学・音楽だ。だから、星の動き方や音の鳴り方といった現象に囚われてはならず、その背後にある目に見えない法則や真実を探求しなければならない。しかし、いつの時代でも、世界のどの場所でも、大多数の大衆は無知で蒙昧で欲望に従って生きる存在なのだろう。現代日本も決して例外ではない。■守護者は、どのような厳しい状況においても、自身の信念や教養を守り、決然といられる人が相応しい。また、血筋に関わらず、素養を持ったものが守護者になるべきだ。切磋琢磨であれば良いが、基本的に組織内の権力闘争は全体の生産性を下げる。「出世したい!」と思って自分をアピールするのは良いが、そればかりになると視野が狭まるし、誰かを蹴落とそうとするインセンティブが働く。むしろ家畜たちがするように、いつも目を下に向けて地面へ、食卓へとかがみこみ、餌を漁ったり交尾したりしながら身を肥やしているのだ。そして、そういったものを他人より少しでも多くかち取ろうとして、鉄の角や蹄で蹴り合い突き合いしては、いつまでも満たされることのない欲望のために、互いに殺し合うのだ。特に、お祭りのときとか、劇場に集まってくる種々雑多な人たちにとってはね。なぜなら、そういう人たちにとっては、そこに真似て描かれているのは、自分の与り知らぬ精神状態だろうから。・ある実在が光に照らされて初めて、人間はその存在を知覚できる。哲学者ホワイトヘッドは「西洋哲学の歴史とはプラトンへの膨大な注釈である」という趣旨のことを述べた。プラトンの思想の中心を為す「イデア論」では、現実世界に存在する物体や概念はすべて影であり、真実在=イデアは天上界にあると考える。例えば、世の中には完璧な三角形というものは存在しない(仮に鉛筆で紙に三角形を書いたとしても、線を細かく分解していけば全て原子になってしまう。しかし原子には三角形構造はない)が、人間は三角形がどのようなものか認識できる。よって、三角形の「理想形」のようなものが存在するはず、と主張する。さらにまた若者たちのなかで、戦争その他の機会にすぐれた働きを示す者たちには、他のさまざまの恩典や褒賞とともに、とくに婦人たちと共寝する許しを、他の者よりも多く与えなければならない。同時にまたそのことにかこつけて、できるだけたくさんの子種がそのような人々からつくられるようにするためにも。■まず幼少期にそれらの学問と体育を学ばせる。20代はそれらの学問を総合し、全体的な立場から総観させる。その後、学問と戦争で成績の良い者を30歳で選抜し、哲学的問答法を5年間学ばせる。さらに快楽への誘惑に負けないかを試し続け、50歳で善のイデアを学び取ったならば、国家と大衆と自身を秩序付ける仕事をさせる。そしてわれわれは、こうして子供のときにも、青年のときにも、成人してからも、たえず試練を受けながら無傷のまま通過する者を、国家の支配者として、また守護者として任命し、そうでない者は排除しなければならないのだ。彼らは決して、その領域を超え出て真実の〈上〉のほうを仰ぎ見たこともなければ、実際にそこまで運び上げられたこともなく、また真の存在によって本当に満たされたこともなく、確実で純粋な快楽を味わったこともない。■人々は各自の不足を補うために、効率の良い社会的分業を採用する。これが発展すると、国家になる。その国家の守護者は、国家の守護という「分業」に集中する専門家として、知を愛し、気概があり、敏速で、強い人間である必要がある。ただ、財務省が国家財政の観点から「延命治療」に一石を投じるのは、倫理的になかなか難しいだろう。その意味で、(結果的にがん患者団体からの抗議で撤回したものの)厚生労働省が「命の危機が迫る前に、相続等について話し合っておこう」というキャンペーンを張ったのは、終末期の対応に目を向けさせるための、適切な第一歩だったのではないか。■そのために施すべき教育が、文芸・音楽・体育(医術)だ。文芸や音楽だけでは情緒的で柔弱、体育だけでは粗暴で無知な人間が出来上がるので、両者のバランスが大切である。ちなみにプラトンは「文芸や音楽だけでは情緒的で柔弱、体育だけでは粗暴で無知な人間が出来上がるので、両者のバランスが大切である」としている。※真実を知ったソクラテスが民衆に処刑されたのは、そういうことだとプラトンは暗に示している。ここから先は完全に私見だが、人は自分が「善のイデア」から外れることを為した場合に後悔するからこそ、善のイデアを追うのではないだろうか。少なくとも私は、自分の信じる「善の道」を外れた時には極めて凹む。要は、自己満足のために、善を追っているのである。まだまだ修行が足りない証拠だろう。一般に何か四つのものがあって、我々はそのうちのどれか一つを、何らかのもののなかに探し求めているとする。結果的に善や美にもイデアがあることになるので、人間はそれを追い求めるべきだという主張に繋がる。It has been said that democracy is the worst form of government except all the others that have been tried.人間は生きていると、様々な雑事に追われ、本来目を向けるべきではない嫉妬や悪意に囚われることがある。*言語系3学(文法・論理・修辞)と数学系4学(算術・幾何・天文・音楽)で構成される自由7科(セブンリベラルアーツ)。その上位に哲学が位置する。シラクサ(シチリア島にあったギリシャの植民地)で理想の政治を実現しようとしたが失敗。アテネに戻ってアカデメイア(Academyの語源)という学園を創設して、幾何学・天文学・哲学等を教えた。老齢の者が集まると、若いころの快楽がいまはないことを嘆き、女と交わったり、酒を飲んだり、陽気に騒いだり、その他それに類することをあれこれやったのを思い出しながら、悲嘆にくれるのが常だ。これは、本書最初の数ページ目に出て来る。「西洋哲学の源流」というから、どれだけ難解で高尚なことが書かれているのかと身構えて読むと、いきなりの下ネタ(?)で肩透かしをくらう。ちなみに、医術の神アスクレピオスが持っている杖は、欧米を中心に「医療」を象徴し、WHO(世界保健機関)のロゴにも使用されている。・よって、可視界では認識できない「善のイデア」も確実に存在すると考えた。人々が学問をないがしろにする。権力闘争する。優秀層と大衆層が混ざる。私有財産を認める。・例えば「最も美しい人間」と言われれば、誰でも頭の中にその姿を思い浮かべることはできるが、実際にそれと全く同じ人間は存在しない。慶應義塾大学経済学部卒業、シカゴ大学経営大学院修了(MBA)、米国公認会計士。

プラトンの理想とした国家像は原始共産制的階級社会というべきものであった。原始的とはいえ、共産主義と階級社会とは相容れないもののように考えられがちであるが、プラトンはこれらを融合させて、究極の超国家主義的な社会のありかたを理想のものとして夢見たのであった。 プラトン Plato B.C.427~B.C.347古代ギリシアの哲学者。アテナイ出身。主著は、『饗宴』『ソクラテスの弁明』『国家』。形而上学、倫理学、認識論、政治学、心理学、数学、神学、芸術などで深い思索をおこなった。ソクラテスの熱狂的な崇拝者であり、アリストテレスの師でもあった。 プラトン(b.c.427-b.c.347) Ⅲ 理想国家のあり方と条件、とくに哲学の役割について C 哲人統治者のための知的教育 4.洞窟の比喩